「マセマティック放浪記」 2001年3月21日
Mathematics Odyssey March 21, 2001
国宝渡岸寺十一面観音

  若狭へと向かう途中、関が原インターチェンジで名神高速道を降り、国道三六五号線に入った。体内に巣喰ういつもながらの脇道走行癖に促されてのことだった。雪に覆われた伊吹山の麓を抜け、姉川の合戦で知られる姉川を横切り、織田勢に敗れた浅井(あざい)長政の居城小谷城のあった小谷山を右手に見ながら木之本方面へと北上を続けていると、国宝十一面観音のある渡岸寺(どうがんじ)観音堂の入口を示す標識が目に飛び込んできた。いったんはその場所を二百メートルほど通り過ぎたのだが、長年のうちに培われた嗅覚がはたらいたこともあって、すぐに引き返し同寺を訪ねてみることにした。
  この国道はこれまでに何度も通ったことがあるのだが、うかつにも渡岸寺十一面観音の存在を見落としていたのである。そのあたりは車の通行の少ない直線状の走りやすい道であるため、ついつい高速で走り抜けることがおおく、これまでその標識があるのに気づかなかったのだ。今回はたまたま車に渡辺淳画伯の貴重な絵画作品群を満載していた関係で意識してゆっくりと走っていたのだが、逆にそれが幸いしたようなわけだった。
  琵琶湖北岸に位置するこの高月町の渡岸寺十一面観音については、松本清張の作品や井上靖の十一面観音紀行などを通して一応その存在だけは知ってはいたのだが、なぜかこれまで進んで訪ねてみようという思いがはたらかず、そのままになっていたのである。
  十一面観音というと、秋草道人の号で知られる歌人会津八一が、
  ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に 
  あひみる ごとく あかき くちびる
と詠んだ奈良法華寺の十一面観音が有名で、青春時代に会津八一の歌に傾倒していた私などは、八一の自註鹿鳴集などを片手に法華寺を訪ねその尊顔を拝しもしたものである。現在国内には六体の国宝十一面観音があるのだが、それらのなかでも美しさにおいては一、二といわれるあの法華寺十一面観音の向こうを張ると聞く渡岸の観音像を拝観できるのは、偶然の成り行きとはいえ、願ってもないことであった。
  渡岸寺脇の駐車場に車を置き寺の境内に入ると、ひんやりとした大気が心の緊張を促しでもするかのように両頬を撫でた。三月初めのこととあって、境内に人影はほとんどない。一見したところどこにでもありそうなこのお寺に、高名な国宝十一面観音がほんとうに安置されているのかとさえ思いたくなるような閑散さであった。この様子だと、たとえ観光シーズンであっても来訪者はそう多くはないのではなかろうか。
  ごく普通の造りと大きさの本堂脇の受付で拝観料を払うと、すぐに左手奥にある観音堂へと案内された。先客が二人ほどあったが入れ違いになったので、お堂に入ったときには案内役の地元の古老らしい人と私の二人だけになった。お堂の中央には重要文化財の胎蔵界大日如来坐像が安置されいた。そして、その向かって右手に立つのがお目当ての十一面観音像にほかならなかった。如来像が中央に配されているのは、仏様の格としては菩薩よりも如来のほうが上位にあるからなのだろう。菩薩とは、ゆくゆく如来になるために衆生を救済する行を積んでいる修行仏のことで、さしずめ弥勒菩薩や観音菩薩は菩薩群のなかの優等生といったところになるわけだ。
  大日如来の前に坐し一通り古老の説明に耳を傾けたあと、私はおもむろに腰を上げて十一面観音像の前に立った。それは想像をはるかに超えた、実に美しい観音像であった。なるほど、法華寺の十一面観音の向こうを張ると言われるだけのことはある。穏やかな表情と流麗このうえないたたずまいの奥に揺るがし難い気品と存在感を湛えたこの観音像が、奈良でも京都でもなく、琵琶湖北岸に近い高月町という小さな町の一隅において、千百五十年に近い歳月を超えて伝承され続けてきたことは文字通り奇跡に近いことのようにも思われた。
  高さ百九十四センチ、檜の一木造りの見事な観音像は、寺伝によると、天平八年、時の天皇より除災祈祷の勅命をうけた僧泰澄が祈りを込めて彫り上げたものだということになっている。ただ、専門家の詳しい調査によれば、実際には法華寺の十一面観音と同じく、平安初期の貞観の頃に造られたいわゆる貞観様式の仏像の傑作であるらしい。
  胸の高さに上げられた左手の中指、薬指、親指の三指は水瓶の長い首にかるくまるめて添えおかれ、残りの人差し指と小指の二指は優美なかたちで立てられている。また、いっぽうの右手は体の側面に添うようにして自然な感じで下方に伸び、感情、頭脳、生命の三線の深く刻まれた手の平の先につく五指はいずれもまっすぐに地を指している。水瓶を支える左手の親指と中指が輪を成して触れ合っていることから、敢えて印形にこだわった見方をするならば、中品中生(ちゅうぼんちゅうせい)の印のデフォルメとでもいうことになるのであろうか。
  胸から腰にかけての豊満な体の線も美しいけれども、さらにそれを一種妖艶なまでに引き立てて強調しているのが、左側にかなり大きくひねられた腰部の造りだった。しかもこの腰部の秀麗このうえないひねりは、この像全体の安定感を崩すどころか逆にそれを深めさえしていた。作者がはじめから素材の形状にかかわりなく意図したものなのか、一木造りのゆえ素材の形状を活かすべくしてこのようなかたちに仕上がったものなのかは知るよしもないのだが、実に見事なものである。瓔珞も、そして優しく流れるように全身を巻き包む羽衣様の天衣も繊細でみやびなことこのうえないものだった。
  尊顔はと仰ぎやると、久遠の祈りをこめて瞑目するかのような切れ長の両の半眼を、端正な眉から鼻筋へと続く二本の秀麗な曲線が半ば包むように囲んでいる。また、鼻柱を構成する線はギリシャ彫刻のそれのように端麗で、正中線がはっきりと浮き出た口元は小さくきりりと引き締まり、穏やかななかにも森厳さを湛えた表情全体の要(かなめ)の役割をしっかりと果たしている。ふっくらとした両頬は顔の表情全体に円やかさをもたらしており、頭髪との境をなす額の線は変化に富みしかも柔らかこのうえない感じだった。
  一般に十一面観音像は頭頂部の宝髻(ほうけい)に十一個の化仏、すなわち小仏面をもっている。詳しく述べると、前頭部に菩薩の慈悲を表わす三個の菩薩相面、左側頭に憤怒の形相をした三個の瞋怒相面、右側頭に牙を剥き出した形相の同じく三個の狗牙出相面、後頭部には大哄笑している相の一個の暴悪大笑相面、そして最頭頂にひときわ大きく天に突き出すように如来相の仏面一個と、合計十一個の小仏面が配されている。本面を入れると十二面となるわけだが、なぜか十二面観音とは呼ばれない。十一面観音信仰の典拠となる「仏説十一面観世音神呪経」や「十一面神呪経」にも、その形状について頭頂にいま述べたような十一面の小仏面を戴くと説かれているようだから、こればかりは文句を言ってもみてもはじまらない。
  ところが、この渡岸寺の十一面観音はなぜか化仏の数やその配置でも型破りの存在なのだった。前頭部には三個あるべき菩薩相面が二個しかない。そのかわりそれら二個の菩薩面の間、すなわち本面の中心線延長上に位置するところに、よく見ないとそれとは判りづらい小さな如来立像が一体配置されている。また、左側頭部には二個の瞋怒相面が配され、残り一個の瞋怒相面は左耳の後ろ側に彫り加えられている。同様に右側頭部は二個の狗牙出相面が並び置かれ、残り一個の狗牙相面は右耳の後ろ側に添えられている。さらに、暴悪大笑面は本面の真後ろに位置する文字通りの後頭部に彫り込まれているのである。しかも、この暴悪大笑相面は実に表情豊かで、その哄笑ぶりは豪快なことこのうえないものだった。両耳たぶにかなり大きな鼓様の耳飾りがついているのも私にとってはなんとも意外なことだった。おそらくはどこか西域の文化の影響を表すものであるに違いない。
  本来は如来相であるべき頭上中央の頂上仏は、これまた何故か如来形ではなく菩薩相面になっていた。他の十一面観音像にも見られる正面の小さな如来立像はもちろん化仏ではないから、化仏の数は合計十個で、本面と合わせてこれぞまさに十一面観音と言いたくもなるのだが、破格はあくまでも破格ということになるのだろう。ただ、そんな型破りの構成をもつがゆえに、この十一面観音の化仏は他の十一面観音像のものに較べて一回り大きく表情も豊かで生気に満ち満ちていた。しかも個々の化仏の宝髻は高く大きく盛り上がり、化仏自体の存在感をひときわ大きなものにしているのだった。それぞれの化仏の宝髻の前面に後光をもつ如来坐像が一体ずつ彫り込まれているのも特徴的だった。
  いっぽう、腰下から蓮台上に立つ両足先へ向かってすらりと伸びる両脚のラインも息を呑むほどに美しかった。均整のとれたこの観音像の脚線美の背後に、これまた遠い異国の文化の影が色濃く落ち潜んでいるのは素人目にも明かなことだった。それにしても、観音像本体はもちろん、蓮台の蓮肉の一枚一枚にいたるまでが一木造りだというのだから、これはもう唯々驚きの一語に尽きた。
  もともとは全身が金箔で覆われていたのであろうが、いまでは水瓶や天衣の一部などにその名残が見られるだけである。長い年月の洗礼を受けて、全体的には下地の黒漆が表面にあらわれ、ブロンズ像の重厚な輝きにも似た感じで黒光りしているのだが、それがまたこの十一面観音に言葉では形容し難い品格と崇高さとをもたらしているようでもあった。
  ――私は直接にはあなたがた人間の苦悩を救うことはできません。でも、あなたがたの陥る迷いの数々や犯すであろう諸々の過ちは、それをけっして責めたりせず、すべてを肯定してあげましょう。そして、永遠の微笑みと慈眼をもってあなたがたの生をいつまでも見守り、その道行きを祈り讃えてあげましょう。つまるところ、生きるのはあなたがた自身にほかならないのですから――無言のうちにそんな言葉を語りかけでもするかのようにたたずむこの国宝十一面観音には、しかしながら、隠れた受難の歴史が秘められていたのである。人間の業の生みもたらした戦乱の渦の中で、この像は戦火に身を焦がし焼失の危機にさらされながらも、自らを悲惨な状況へと追い立てたそれら愚かな人間のためにひたすら救済の祈りをささげつづけてきたのであった。
  元亀元年(一五七〇年)、織田信長は小谷城主浅井長政を攻めた。そして姉川の合戦とそれに続く小谷城攻防の激戦のなかで、湖北一帯に位置する数々の古刹の堂宇が焼き払われ、その寺領のほとんどは次々に没収されていった。信長の怒りをかっていた比叡山延暦寺の傘下の渡岸寺にその法難から逃れるすべのあろうはずもなく、堂宇はことごとく灰燼に帰し、渡岸寺そのものも廃滅した。
  その戦乱のさなか、この十一面観音を深く信仰していた地元の民衆たちは、兵火が堂宇を襲うのをものともせず猛火を冒して堂宇に入り、観音像を搬出したと伝えられている。しかも、なんとか救出はしたものの、それを織田軍将兵の目から隠し守る場所もなく、やむなくして土中に埋蔵し観音破壊の暴挙を回避したのだという。
  織田信長と浅井長政といえば、歴史ドラマなどにおいては常に稀代の英傑として格調高く描き出される両雄ではあるが、現代の政治家たちのほとんどがそうであるように、おそらくその実像は、戦場となった一帯に住む民衆のささやかな生活や日々の敬虔な祈りにはおよそ無縁な存在であったに違いない。その時代を左右したといわれる彼らの戦いの意義は四百年余の歳月のなかでもはや風化してあとを留めず、彼らにとっては無意味に過ぎなかったろう民衆の観音救出というささやかな抵抗行為のほうは、長い年月ののちのことではあるが、結果として、この国が世界に誇る仏教文化と仏教芸術の維持保全に少なからず寄与するところとなったのである。歴史というもは実に皮肉なものだと言うほかない。
  戦乱がおさまった翌年、井口弾正が一帯を領するに及んで、辛うじて雨露が凌げる程度のささやかなお堂が設けられた。そして、土中から掘り起こされた十一面観音像はそこに安置され、世のほとんどの人には知られぬまま、代々地元の民人の手によって守り伝えられてきたようなわけだった。金箔がほとんど剥落し、黒漆の地塗りが表面に出てきているのも、そのような背景があったからだと言われている。
  受難の日々に耐え、長い不遇の時を北琵琶湖畔の地でひそやかに送っていたこの観音像が稀代の貴仏として高く評価され、広く世に知られるようになったのはかなり近世になってからのことであった。奈良や京都の高名な寺院にあって昔からそれなりの扱いをうけてきた他の国宝十一面観音像などとはその点でも大きく異なっているのである。明治二十一年の宮内庁全国宝物取調局の調査ではじめてその真価を見出され、日本屈指の霊像として称賛されるようになった。そして、明治三十年になってようやく国宝の指定をうけたのである。それからずっとのちの大正時代になって現在の観音堂のもとになる建物が建立され、昭和二十八年に新国宝として再指定をうけるに及んで、その掛け替えのない価値があらためて深く認識されるところとなった。そして、幸いなことに、それ以降は多くのこころある人々手で厚く祀り伝えられてきたのである。
  ふとしたきっかけがもとで、この素晴らしい十一面観音像にめぐりあえることができた私は、その幸運をあたらめてかみしめながら、渡岸寺の山門をあとにした。そのあと高月町から木之本を経て琵琶湖の北岸をまわり、今津から旧鯖街道に出て小浜に抜け、夕刻に渡辺さんの待つ若州一滴文庫へと到着したのだが、その間、私は繰り返しくりかえし渡岸寺十一面観音の美しさと不思議さをかみしめ想い起こしていた。



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