「マセマティック放浪記」 2001年3月7日
Mathematics Odyssey March 7, 2001
与勇輝の人形に思う

  ある知人の家を訪ねると一目みただけでそれとわかる与勇輝(あたえゆうき)作の人形が飾られていた。老人の姿をかたちどった人形だったが、いつどこで目にしても、この人の手になる人形には見る者をはっとさせる不思議な生気が漂っている。与勇輝作の人形のもつ底知れぬ魅力と凄みについては、女優の黒柳徹子をはじめとする一部の人形通たちの間でずいぶん以前から大評判になっていたようだし、十年ほど前には国内各地のデパートなどで作品展示会が催され一世を風靡したこともあったから、よくご存知の方も多かろう。
  まったく畑違いの世界のこととあって、私は人形制作技術については何ひとつ知識は持ち合わせていないのだけれども、ふとしたことから与勇輝の人形の放つ妖しいまでの力に心底魅せられてしまった人間の一人として、その作品の素晴らしさについて過去の記憶を交えながら少しばかり述べさせてもらいたいと思う。
  はじめて与勇輝作品と対面したとき、瞬間的に「この人形を作った人はおそろしい」と感じたことをいまもはっきりと思い起こす。むろん、この「おそろしい」という言い回しには最大級の敬意が込められている。ある種の精気を発するようなその人形の視線には、向かい合う人間の心の奥底を当人にすら見えないところまで鋭く射抜く力が隠されていたからである。しかも、その視線は、鋭いにもかかわらず、おそるおそる確かめてみると不思議なほどに温かい。そこには、すべてを許し包み込む大地のぬくもりとでも言うべきものが強く感じられるのだ。
  与勇輝という人は、高名な人形師、辻村ジュサブローと、ある意味で対象的な存在であると言えるかもしれない。和服を粋に着流し、はじめての相手にも女性を思わせるような物腰の柔らかさで、みるからに言葉優しく語りかけてきてくれるジュサブローは、実はその内奥に決して他人には近寄ることの許されない峻厳さを秘めた人でもある。はじめの優しさをその本質だと取り違えて一歩奥まで踏み込もうとすると、多分、厳しく、またときには凍るような冷たさで弾き返されてしまうことになるだろうと私は感じたものである。昔の吉原の遊廓などをテーマにしたその数々の壮麗な作品群がおのずから物語っているように、ジュサブローはその視点を「天」、すなわち、究極的には彼にしか近づけない「時空の高み」にとり、そこから鳥瞰される世界の有様とそこで生きた個々の人間の運命を、人形というかたちに託し込み、一つの完結した空間として演出する。したがって、天才ジュサブローにしてはじめて到達可能な世界であるかわりに、そこは他の誰も踏み込むことが許されない世界でもある。 
  それに対して、与勇輝という人は、当初はきわめて厳格かつ孤高でどこか近寄り難い感じがし、見方によっては偏屈そのものにさえ映るにもかかわらず、聳える壁をその内奥に向かって少ずつ踏み越え進んで行くならば、最後には近づいて来る者を心の灯火で温かく迎えて入れくれるような人柄に違いない。この人の視点は「地」にあって、そこから世界を見上げている。そこから優しく人びとを包みこんでいる。いや、むしろ、その視点は人間の身体の中に埋まっていると言ってよい。だから彼の人形は、一体一体がそれぞれの物語を心の言葉で話しかけてくる。それぞれの人形はそれぞれの人生を見事に背負って立っている。
  例えば、かつて私が目にした作品の中に「追憶」という一群の人形があった。それらは、二人のまだ幼いこどもを間にはさんだ中年の夫婦を中心に、老母、それに小学生から高校生くらいの残り五人の子供達を左右に配した一昔前の家族の人形群であった。正面に立つと、一つひとつの人形は、いや、その家族の一人ひとりは、それぞれの人生の経験と重みとに応じた心と言葉で見るものに自らの存在を訴え語りかけてきた。私にはたしかに彼らの声が聞こえたし、それらの眼が何ごとかを訴えかけてくるのを感じもした。
  それだけでも凄いことなのだが、人形群の後ろに回った私はいっそう驚かされることになった。それらの人形それぞれの後姿がなんとも感動的だったからである。人間の後姿はなによりもよくその人生を物語ると言われるが、それら一群の人形の背中のひとつひとつは、生身の人間のそれと同様、いやそれ以上に、深い感慨の込もった無言の言葉を静かに発していたのである。こうなると横に回ってみたくなるのが人間の心理というもので、作者思惑通りに、そこでまたはっと息を呑まされることにもなった。その当時までに制作された人形の数はおよそ五百体にのぼるということだったが、一体一体の人形がどれをとってもすべてそうだというのだから、ただもう驚嘆するほかはなかった。
  ここまでくるともう、人形などと呼ぶよりは、「心形」とでも呼んだほうがふさわしいのではなかろうか。普通、絵画、彫刻、工芸といった作品は写真に撮って図版として製本すると、どんなに優れたものであっても持ち味が死んでしまうものなのだが、与勇輝の作品に限っては不思議なことにそうではない。その人形達は平板な写真となって本の中に閉じ込められてもなお、驚くばかりに精気を放っているのである。これはもうただ事ではない。文字通りの「心形」のなせる業で、そのこと自体が与勇輝の作品の凄さを何よりもく物語っていると言えた。
  あくまでもこれは個人的な推測ではあるが、与勇輝が、一時期活動を共にしていた辻村ジュサブローと別々の道を歩むようになった背景には、さきに述べたような本質的な視点の相違と表現法の違いがあったように思われてならない。むろん、どちらも類まれなる才能の持ち主なのであり、表現の立脚点が相互に異なるのであるから、ここでその甲乙を議論してみたところで何の意味もない。ただ、私自身は、自らの人生観との絡みもあって、与勇輝の作品により惹かれるところが多い気はする。

  人形というと、世界的に有名なのはジュモーである。あのフランス人形の極地とも言うべきジュモーの人形には、精巧な作りに加えて言い知れぬ豊かな表情とこまやかな感性が秘められており、見るものを不思議な感動に誘い込む。与勇輝の人形もそれに似たところがなくもないのだが、私個人としては、その本質は、むしろ、ロダンやその弟子の荻原碌山、高村光太郎といった、自然主義の彫刻家達の作品にに近いものであるように思う。
  歓び、悲しみ、怒り欲望、悶えと言ったような人間の内面を、生身の人間のそれら以上に衝撃的なリアリティをもってブロンズの彫像に托しきった偉大な彫刻家達と同様に、与勇輝という人は、布地を主な素材とした独自の人形に人間の心の陰翳を托し表そうとしていると言ってよい。写実ではあるが、それは心とその心の発する言葉の写実なのであり、単なる外面の精巧な写実なのではない。だから、たとえゴッド・マザーという言葉の意味を知らないとしても、ゴッド・マザーというタイトルのついた人形の前に立つと、我々は一目見ただけで有無を言わさずその言葉の持つ意味を納得させられてしまうのである。実際、これは凄いことに違いない。
  与勇輝は決して自分の人形製作の技法を隠したりはせず、一切を公開して見せていたらしい。しかも、町のカルチャー・センターなどで、長年にわたって一般の人々を対象にして人形制作の指導を続けてもきたという。そのかわり、その指導は極めて厳しかったようである。容易なことではうんと言わない。素材も決っているわけではなく、工夫を凝らしてありとあらゆるものを使う。靴・帽子・バイオリン・ランドセル・菅傘・篭類・草履・下駄・着物地の染めから各種の細かな刺繍まで、本物の製作とほとんど同じような工程を踏みながらすべてを自分で作らせられる。もちろん、着物や洋服は、本物を仕立てるのと寸分違わぬやりかたで作製させられる。そしてそのうえ、仕上がった人形はそれなりの人生を背負い、心と言葉をもっていなければならない。だからたった一体の作品を作るのにさえ途方もない時間を要したりもするらしい。
  私の知人でもあり、与勇輝の弟子筋にあたるある老婦人などは、老人の人形を作っていたとき、その小さな杖一本を作るのに何度やってもやりなおしを命じられ、そのためにずいぶん長い時間苦しんだそうである。あるときたまたま見つけたちいさな木の素材を使い、それにいろいろ手を加えてようやくOKが取れたのだそうだが、その人形が完成したときの充実感は大変なものだったという。
  聞くところによると、与勇輝という人は自分の制作した人形がケースに収められることを大変に嫌うという。「呼吸ができず、心が自由に翔けなくなり、人形が死んでしまう」というのがその理由なのだそうだ。自分の作った人形が人手に渡った場合でも、彼は時間をみてはその家を訪ね、自分の納得の行くまで、形の崩れや、微妙なバランス、衣類や付属品のちょっとした加減などを調整してまわってもいたらしい。人形の一体一体が、文字どおり、作者自信の分身そのもになっているからなのだろう。
  人形制作のペースは、平均、一・二カ月に一体くらいだったようで、納得がいかないときには、年に一体も完成しないこともあったというから、まさにそのへんは昔の職人気質そのままだと言ってよい。もちろん、人形の持ち物すべて手作りだから、ありとあらゆる工芸技術の修練と研鑚をも常に積んでいるわけで、その苦労は想像以上に大変なものだったようである。
  ずいぶん前に見た作品展の賑わいぶりなどからすると、はためにはとても華やかそうに映るのだが、人形制作のペースがいま述べたような具合いだし、もともとそれを売って生計を立ててきた人でもないようだから、実際の生活面は想像以上に大変だったことだろう。
  むろん、ディーラーの誘いにのって手を抜いた作品をどんどん作るかたわら、高い講師料をもらって人を教えれば生活は楽にはなったのだろうが、そうすれば人形のほうは心と精気とを失ってたちまち死んでしまったに違いない。逆に言えば、もともとそういうことのできない気質の人だからこそ、あれほどまでに凄い人形を作り出せたのであって、それはもう、芸術の本道を行く人の宿命とでも言うべきものであるのかもしれない。
  知人の話によると、ときたまテレビ出演したときなどに見せる穏かそうな表情が与勇輝の常の表情だと思ったら大きな間違いであるという。普段人形を作っているときの、あるいは、人形の作り方を弟子たちに教えているときのその姿は鬼そのもであるらしい。その指導の仕方も、多くの一流職人や第一級の芸術家がそうであるように、教えるというよりは優れたものを自ら実際に作って見せるというやりかたであるようだ。むろん、程度をわきまえてのうえのことではあろうが、恐ろしい形相で鋭いノミを作業台に突き刺すことなど日常茶飯事のことのだったらしい。
  一流の芸術家というものは、多かれ少なかれ皆そうなのであろうが、あれほどまでに人間の心の奥を見通す眼を持っていると、むしろある意味では人一倍不幸だとも思われる。見えすぎるゆえの不幸である。そして、そのような一人の天才が、天才のゆえに避けることのできない不幸をば、全身全霊を込めて作品へと昇華させようと足掻き苦しんだ結果として、はじめて、あのような優れた人形群、いや、心形群はこの世に生まれ出てくるのであろう。
  思いがけなく目にした与勇輝作品がもとで、かつて目にしたその作品群の印象を語ることになってしまったが、いま述べたようなことは単に人形の世界に留まらず、芸術一般の世界にも通じることであるように思われてならない。



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