「マセマティック放浪記」 2001年2月7日
Mathematics Odyssey February 7, 2001
IT時代と教育

  IT革命の時代とはいっても、その発展に必要な人間の資質についてはこれまでと少しも変わりはない。いくら時代が進んでも、大自然の奥深さに感動し、人間という存在の不思議さに心をときめかすことがなくなってしまったらInformation Technology など有名無実のものになってしまうことだろう。将来、「人間」という概念そのものが崩壊し、いまの人類とは異質の生命体へと変容していく時代がきたらむろん話は違ってこようが、まだ当分は人間あってのITだということに疑問を差し挟む余地はない。
  IT時代の最前線に立つ研究者や技術者、経営者などをみてみると、意外なことに、幼児期や少年期、大自然には恵まれていたものの、当時の先端技術や最新情報などにはまるで無縁な山奥や離島など、いわゆる非文化的空間(?)に育った人が少なくない。そんな彼らに共通して言えることは、一般的な都会育ちの者に較べ、教科書的な知識でははるかに遅れをとっていたけれども、生きた自然事象に対する観察眼や生命のドラマに感動する心においてははるかに勝っていたということだろう。彼らは創造力の源泉となる原風景や原理思考の方法論を時間をかけながらしっかりと獲得形成していたともいえる。そして、それらの原風景や方法論がIT世界での優れた業績につながってもいるのだろう。
  発生学的認識論の研究などで知られる高名な認知心理学者ピアジェの言葉を借用するなら、一般論として、田舎育ちの人は具体的操作の段階(実際の対象物をじっくりといじくりまわしながら思考を培い深めていく段階)から形式的操作の段階(文字や各種記号など、抽象的な記号のみを操作して思考を積み重ねていく段階)への移行がゆるやかで、逆に都会育ちの人は具体的操作の段階から形式的操作の段階への移行がはやいということになろう。しかし、昨今の我が国では、極度の少子化と親たちの教育熱の高まりせいで、国内の津々浦々までが形式的操作の段階への移行を急ぐ都会的な教育風潮の中に巻き込まれてしまっているように思われる。
  昨今の初等中等教育のカリキュラム改正(?)で理数系の学習事項が大幅にカットされたり高学年や大学教育課程へと先送りされたりし、識者の間では、そうでなくても若者の理数系離れが問題となっているこの国の科学立国としての将来が危惧されているようだ。いろいろと議論は尽きないところだが、個人的には、そうやってつくられた十分な思考形成のためのゆとりの時間をどう活かすか、また初等中等の教育者が問題の本質をどう理解し、どんな対応をとるかにすべてはかかっているように思う。たとえ国指定の教育カリキュラムや教科書枠を外れた内容を扱う時間を組み入れたとしても、旧来的な画一的一斉授業での表面的な知識の詰め込みに終わるなら、事態はいっそう悪い方向へと進むことだろう。
  初等中等教育における「奉仕活動の義務化」などといったなんとも時代錯誤的な教育改革論が提言されている昨今だが、そんなうわべだけの教育カリキュラムの導入をはかれば子供たちが社会倫理や生命倫理を修得できると、政治屋オジサンや政治屋オバサンがたはほんとうに考えているのだろうか。そんな手合いがいっぽうでは「IT革命」や「IT教育促進」を偉そうに叫んでいるのだからますますもって困ったものである。
現代の子供たちは、社会倫理や生命倫理のかけらさえも持ち合わせない政治屋たちの姿を日々目にして生きている。一定期間の「奉仕活動の義務化」をもっとも必要としているのは近年の国会議員の諸先生方ではなかろうか。よほどそのほうが教育効果があるに違いない。真剣に未来の技術立国を考え、真の意味での生命倫理の確立を願うなら、大自然とその中における生命存在の根底の理解に深くかかわる具体的操作の学習段階をどう満たしどう導いていくかを徹底的に論じるべきだろう。
  私自身その理論をすべて肯定しているわけではないが、ピアジェが、「具体的操作の学習段階には十分に時間をかけるべきである。形式操作への移行を急ぎすぎると一時的には知識の修得が急速に進んだようにみえるが、本当に高度な論理構造や抽象的理論の修得段階(高校高学年から大学初等教育以降などの段階)に差しかかると、たちまち壁に突き当たってしまい、それらの概念の理解修得すら難しくなる。ましてや先々における独創的な抽象理論の構築などおぼつかない」という主旨のことを述べているのは正しいと思う。トレーニングによって表面的には難しい文章をすらすらと音読できるようになった幼児が、成長してからもその文章の意味や微妙な綾をまったく理解できず、文章というもの自体にも興味が持てなくなるといったようなことはすでにあちこちで起っていることである。
  当時の西欧社会の教育状況に基づいてピアジェが指摘した具体的操作の段階から形式的操作の段階への移行期は、日本の小学校の中高学年の時期に相当しているが、私自身は、具体的モデルがすでに存在しているかそれを人工的に提示できるかするかぎりは、より高学年の教育においても具体的モデルの操作を通した学習を進めるべきだと思う。
  一般言語や文字、抽象的な各種科学記号などは、人間と対象物との間に介在し、人間の思考にそって対象物を操作したり、逆に対象物の様態を人間へと伝達したりするはたらきをもつ。具体的操作の段階とは、媒介となる言語や文字、各種科学記号などを用いて、身近な実際の対象物にじっくりとはらきかけたり、刻々と様相や様態の変化をみせる対象物からのメッセージを受け取ったりしながら、それら言語や文字、科学記号類の操作に少しずつ習熟していく過程なのだ。
  この段階が性急に過ぎたり、なんらかの理由で欠落したりうまくいかなかったりすると、先々、高度な抽象論理の理解に支障をきたしたり、コミュニケーションの場で的確な自己の意思伝達や十分な相手の意思の理解ができなくなったりするおそれがある。かつてジャンジャック・ルソー研究所においてピアジェのもとで学んだMITのシーモア・パパートはミンスキーらの協力を得て、数理科学面における具体的操作の学習段階期の思考モデル形成に役立つような、コンピュータ教育言語LOGOを開発した。もうずいぶん昔のことになるが、一時期、私も国内の教育におけるこの言語の発展的な活用法と実践的な応用研究に携わっていたことは既に述べた通りである。
  自ら膨大な量の関連原稿を書き応用ソフトを仕上げたが、時期尚早であったことのほか、教育界の制度上の問題に因する諸般の事情などもあって、我が国では現場への普及が難しく、結局すべての努力が徒労に終わってしまった苦い想い出などもある。プログラミング作業を通して数理科学の原理思考とその発展応用を一歩ずつ着実に学んでいくものだけに、長期的展望に立てば極めて有意性が高いと思われていたにもかかわらず、知識詰め込み型の教育重視の我が国においては、それを教育の現場に定着させることは困難というより不可能であった。文部省の担当官や教員組合の責任者らともずいぶんと掛け合い真剣に議論を交わそうとしたが、当時の彼らのほとんどは無理解を通り越し無責任そのもので、来るべきIT時代の子供のことなどまるで考えていなかったし、考えようともしていなかったように思う。
  それからほどなく私はコンピュータ教育関連の研究からすっかり足を洗うことにしたのだが、アジアのコンピュータ教育先進国シンガポールなどが当時既にLOGO言語を教育現場に取り入れ積極的なメディア教育に取り組んでいたのに較べ、我が国のコンピュータ教育の遅れぶりは実際目を覆いたくなるものがあった。
  インドの数学教育とコンピュータ技術教育のレベルの高さが昨今我が国でも大きな話題になっており、新聞や週刊誌などでもそのことが再三大々的に報じられている。ごく最近のことだが、現在インドに滞在してある分野の勉強をしている娘の交際相手の若者からのE-mailによって、インドの初等教育の現場でLOGO言語が積極的に用いられていることを知った。
  ゲストハウスのオーナーの娘である小学校三、四年生の女の子が持ちかえった宿題の一つにLOGO言語のLOGOという呼称の語源は何か調べてこいというのがあったらしい。それで彼は私にその語源を尋ねてきたようなわけだった。言葉、概念、説明、理由、論理、思想、言語能力、理性など多くの意味を含み持つギリシャ語のロゴス(logos)がむろんその語源なのだが、小学生相手にこのような基本的なことから考えさせようとするインドのLOGO教育の徹底ぶりを知って嬉しく思う反面、空恐ろしさをも覚える有様だった。もしかしたら、書架の片隅で眠っている大量の私の研究資料も近い将来インドあたりで日の目を見ることがあるかもしれない。

  情報技術の革新をはじめとする将来のコンピュータ・サイエンスの発展ははかりしれないが、容易には解決できそうにない問題も存在する。よく知られているように、高度で複雑な数理科学上の演算処理をこなすよりも、人間がごく普通にやっているような行為をうまくやってのけることのほうがコンピュータにとってはずっと難しい。たとえば、「俺は酒が嫌いだ。ジュースのほうがいい!」という酒飲みの冗談まじりの言葉を、会話の文脈だけから、実は「酒を飲ませろ」と要求しているのだと即刻コンピュータに理解させることは容易でない。
  的確にそんな芸当のこなせる対話型ソフトを作成するには、その中にありとあらゆる状況の解析や状況の判断をおこなう膨大なプログラムと必要データを組み込んでやらなければならない。2001年宇宙の旅の中のハルのように、自然言語を人間同様に使いこなし、しかも人間の感情までも正確に読み取るような対話型コンピュータの製作が極めて困難なのは、そういった事情があるからにほかならない。
  人間というものはなんともナルシスティックな動物で、自分たちの言葉や行動をできるかぎりそっくりに真似できるコンピュータやロボットを造りたがる。しかしながら、簡単そうに見えてそれはたいへんに難しいことである。完全なものを造るとなると絶望的な困難を伴うことになりかねない。最先端のコンピュータサイエンスの研究者たちが、揃って人間というもののもつ不可思議なメカニズムに感動し嘆息するのもそんな理由があるからだ。
  だが、それでもなお、人間は完全な対話型コンピュータや究極の人型ロボットなどの実現に挑み続けていくことだろう。それは無限級数の和の極限値を各項の値を順次計算しながら求めていくような果てしない作業になるに違いない。むろん、その過程において様々な副次的技術が誕生し、それらが独自の発展を遂げ、我々人類の生活形態を大きく変えていくというようなことは起こるだろう。
  iモードの携帯電話で情報を手早く収集活用する若者達の姿を見ながら、情報社会の近未来像にふと想いを馳せらせることもなくはない。現在の何百倍何千倍もの高速大容量データ送受信可能な携帯電話が将来登場してくれば、高度な多言語翻訳変換機能をもつスーパーコンピュータなどと自由に接続することによって、携帯電話を多言語同時音声翻訳機などとして用いることも可能になるだろう。
  とりあえずその内容が伝わりさえすればよい実務的な文章などの場合にはもっと容易に翻訳ができるようになるだろう。そんな時代が到来したら、現在行なわれているような英語教育というものはほとんど意味を持たなくなるに違いない。幼児期からの英語学習熱に煽られ、幼い我が子を日々幼児英会話教室に送り出している昨今の教育ママたちが、もっとしっかり日本語の表現力を身に着けさせておけばよかったと嘆息する日が、ここ何十年かのうちにやってこないともかぎらない。



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