「マセマティック放浪記」 2001年1月10日
Mathematics Odyssey January 10, 2001
旧IT人間の哀愁

  二十一世紀を迎えたいま、我が国では「IT革命」なる言葉がおおはやりになっている。まるで、「IT革命に乗り遅れた者は社会の脱落者となること請け合いだ」とでも言わんばかりの流行ぶりだ。民間の大手シンクタンクやコンサルティング会社に勤める知人たちは、地方自治体をはじめとする公的機関向けのIT講座やIT戦略の企画と実践に奔走し、それがまた大変な成果をあげているらしい。むろん、ここで言う「成果」とは、公的機関が彼らの企画に進んで予算を投入してくれるために収益があがっているという意味であって、ITすなわち情報技術の本質に対するお役人がたの理解が深まり、そのため自治体内でIT技術を積極的に活用しようという機運が高まりつつあるというわけではない。
  首相自ら音頭をとってIT革命などどぶちあげた手前もあるのだろう、最近、自治省などは各地方自治体に対しIT関連の講座などを公務員が率先して受講するようにという通達を出し、受講者人数の割り当てまで指示しているらしい。ある地方自治体の社会教育部門に属する知人が、「自治省筋からトップダウンでおりてきた指令に従い、自分たちの部署の者たちが市を代表してIT政策の講座に半強制的に参加させられるんですよ。上の人と違って我々現場の実務担当者はそれでなくても多忙ですのに……。しかも、受講は一年間だけに限定されていて、内容はもちろん、受講回数や受講時間数だって中途半端なんです。やるならやるでその分野の専任となるべく、せめて三、四年は仕事がらみでITの勉強をさせてもらえるというのなら話はべつなんですがね……」とボヤいていた。
  政治屋のオジサン連中主導のIT革命なんてまあそんなものだろう。もともとIT革命の本質的な中身などどうでもよく、IT革命という煽動的な標語を掲げて国民の心を揺り動かし、コンピュータや通信関連機器を媒介に大規模な資金の流通が起こればよいというのが本意なのだろう。だが、「ごめんなさい」と言ってITのほうがさっさと逃げ出してしまいそうにも見える政治屋オジサン連の思惑通りに、この現代の世の中が動いてくれるものかどうか……。
  そもそも、民間ではとっくにIT革命が起こっているし、政府や関係省庁が音頭を取ろうが取るまいがITによる社会の変革と国民生活の革新は急速に進展していく。最先端のIT研究に携わる若手のスペシャリストや諸々の専門技術者、さらにはゲームやiモード世代の若者たちは、キーボードに向かうどこかの国の首相のTV映像を白々しい思いで眺めながら、「何を今更……」とせせら笑っていることだろう。
  私自身について言えば、かつての仕事の関係もあって、コンピュータを使い始めたのも、ワープロで文章を書き始めたのも、数理科学用あるいは教育用のコンピュータソフトや言語開発に関り種々のプログラムを作成したのも、そしてパソコン通信を始めたのも国内ではきわめて早いほうだったと思う。それほどに長いコンピュータ歴を持っているというのに、近頃では、世の人々に数歩、いやもしかすると五十歩も百歩も遅れて情報技術の恩恵を享受するのを常とするようになってしまった。近年になって、新しい情報技術に対する相対的関心度が弱まってきたのは事実のようで、温故知新という言葉を便宜的に借りるとすれば、「知新」の部分に少々翳りが見え始めたということであるらしい。旧IT人間の哀愁というわけだ。
  いまから思えばオモチャのような8ビットマシーンのアップル・コンピュータ隆盛の時代、当時のゲーム先進国だったアメリカで「トランシルヴァニア」とか「ロビンフッド」とか「デッドライン」とかいったアドベンチャーゲームの新作が発売されると、「MICRO(マイクロ)」という月刊コンピュータ誌を刊行していた新紀元社の編集部からほどなく我が家にゲームディスクが届けられたものだった。ドラキュラ伯爵をはじめ、有名な各種キャラクターの登場するそれらのゲームに一時期はまりきっていた私は、家族の冷ややかな視線を背中に感じつつも本来の仕事をそっちのけにして夜な夜なそれら新作ゲームにチャレンジし、その奮闘記や攻略記事をMICRO誌に掲載したりもしていたものだ。
  また同誌では、コンピュータ教育関係の専門記事を執筆したり、その頃にアメリカで評判になり始めたばかりのベノア・B・マンデルブロートのフラクタル理論についての解説記事などを連載したりもしてもいた。フラクタル理論はのちにカオス理論、さらには複雑系の理論へと発展し、非線形的問題(生命現象などのように関連する要素が複雑かつ多様に交錯していて、特定の数式などでは容易に記述したり処理したりできないような問題)の記述や処理などに欠かせないものとなっていったのだが、当時の我が国においては、まだコンピュータ・グラフィックスの斬新な手法を供する便宜的理論として注目され始めた程度にすぎなかった。いまからちょうど十七年前に執筆し、マイクロ誌の巻頭記事となった一般向けのフラクタル理論解説記事、「フラクタル序説」は幸いなことに好評を博し、多くの人々に様々な示唆を与えることができはしたようである。
  三次元LOGOという特殊な教育用言語を用いてシミュレーションその他のプログラムを自作し、それに基づく連載記事を科学朝日に書いていたのもその頃のことである。一昔前アメリカの大学で広く用いられていたPASCAL(パスカル)という数理科学用言語とLISP(リスプ)という人工知能用言語をベースにMITで教育用に開発されたLOGOというプログラミング言語は、我が国では単なるお絵描用言語だと誤解され、もはや忘れ去られた存在になってしまっているが、いま振り返ってみても実際にはきわめて優れたコンピュータ教育用言語であったと思う。学生たちに数学や物理の原理思考をさせたり、人工知能の基本を教えたり、高度なコンピュータ・プログラミングの根幹をなすリカージョン(再帰)という難解な概念を基本原理から学ばせたりするのには最適であった。
  MITの数学者エーベルソンなどは「タートル・ジオメトリー」という本を著し、トポロジー(位相幾何学)や相対性理論といった高度な理論の原理学習にまでこの言語が活用可能であることを示しもした。パパートやミンスキーといったMITメディアラボの創立者たちによって開発されたこの言語の奥深さにとりつかれた私は、数理科学の原理学習に関するさまざまなプログラミング研究をおこない、その一端を科学朝日に連載していたようなわけだった。
  余談になるが、その頃、記事内容の打ち合わせかたがた府中の我が家まで原稿を取りに来てくれていた若手の優秀な科学朝日編集記者が、現在では朝日の女性記者の顔として広く知られるようになった辻篤子さんと高橋真理子さんである。辻さんは大阪本社の科学部次長、paso編集長、アメリカ総局勤務を経ていまでは東京本社科学部の要職にあられる。いっぽうの高橋さんは科学朝日編集部から大阪本社科学部次長を経て東京本社科学部に戻られ、現在は朝日新聞論説委員を務めておられる。辻さんも高橋さんも新聞紙上で科学関係の署名記事を数多く執筆、朝日の主催する各種シンポジウムなどでも名コーディネータとしてお馴染みだから、ご存知のかたも多かろう。
  やはり同じ頃、現在の宝島社の前身、JICC出版からの依頼で「LOGOと学習思考」という中・高の先生方向けのコンピュータ教育本を執筆したこともあったのだが、このときお世話になった同社コンピュータ書籍部門編集責任者の佐藤信弘さんなどは、なんといまではおよそコンピュータとは無縁な「田舎暮らしの本」の編集長をやっておられる。まさにITの世界からアンチITの世界への華麗なる(?)転身とでもいうべきであろう。
  ITの世界に距離をおきはじめたのは歳を重ねるにつれて起こる好奇心の衰えが原因と言われそうだし、また確かにそれも一因には違いないのだが、もともと私の心中には古い技術へのこだわりと新技術への強い関心、より端的に言うならアナログとデジタルの世界への関心が同居していたように思う。だから、たまたまある時を境にして一時期大きくデジタル側に片寄り続けていたウエイトが、近年になってアナログ側にぐっと戻ってきたということであるのかもしれない。私の原稿の書き方そのものがたぶんそのことをよく象徴してもいる。
  パソコンやワープロが登場する前はもちろん原稿はすべて手書きであった。やがて初期のパソコンやワープロが登場するようになると、ほどなくそれらを用いて文章を書くようになった。ただそれでも、文章の内容によって手書きとワープロ書きとを臨機応変に使い分けていた。学術的な論文や科学雑誌の原稿などのように文体よりも記述内容にポイントがあるものはワープロで書き、いっぽう、内容はむろん文体やそのリズムそのものからして重要な散文系の文章は手書きで処理していたのである。そして、パソコン用のワープロソフトが現在のもの同様、完成度の高い段階に至るに及んではじめて、すべての原稿をワープロ書きするようになった。
  しかし、全原稿をワープロで書くようになってからも、文体やリズムをはじめとする細かな表現にこだわる必要のある文章の場合には、あらかじめ手書きで仕上げた原稿をワープロ入力したり、そうでなくても、横書きを縦書きに変換したうえでプリントアウトして目を通し、大幅に加筆や修正をほどこしている。縦書きと横書きとでは読み手が文章から受け取る印象やリズム感が異なるうえに、百パーセントワープロで仕上げた原稿だとかなり神経を使っていても結果的にはどこかしらワープロ的、換言すればなんとなくメカニカルな文章になってしまうからである。自分でこんなことを言うのもなんだが、正直なところ、一連の私の拙文などもほんとうは明朝体の縦書きに直して読んでもらったほうがリズムもよく、ずっと自然な文章に見える。
  もちろん慣れの問題などもあるのかもしれないが、横書きでしかもゴシック体風の文字の場合だと、奇妙なことになんとなくゴツゴツして途切れ途切れの文章であるように感じられてしまうのだ。同じ文章でも、明朝体で縦書きにした場合と違って、それなりの工夫を凝らした自然な流れの表現も、苦労して整えたはずのリズムもどこかへ消えうせてしまうような気がしてならない。デジタル表現全盛のIT革命時代のさなかでも容易には改革されようとしないアナログ的な古い己の感覚が悪いのか、それとも昔ながらの人間のリズムに即したアナログ感覚を大切にするようにITの世界にアナログ的なデジタルワールドの実現を望むべきなのか、つくづく考えさせられるところである。



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