「マセマティック放浪記」 2000年12月27日
Mathematics Odyssey December 27, 2000
フィナーレはまた川畠さんで!

  府中市生涯学習センターで催されていた「表現活動の原点」という一連の講座が無事終わった。講師陣は、初回の私に始まり、水上勉作品の挿画装丁でも知られる若狭の画家渡辺淳さん、本欄やニュースステーションでもお馴染みの朝日新聞編集員清水建宇さん、劇作家の大御所別役実さん、現代を代表する評論家の芹沢俊介さん、そして最終回がいまをときめく新進ヴァイオリニストの川畠成道さんという構成だった。私のほかは錚々たる面々で、しかも聴講者は申し込み順に百名ほどに限定、また受講料も全六回を通して千六百円という破格の安さで、なんとも贅沢な講座ではあった。講師と受講者とが至近距離で率直な意見交換や質疑応答をすることもでき、本来講座時間は毎回二時間に設定されていたにもかかわらず、実際には一時間から一時間半も講義が延長されるという異例の事態にもなった。 
  地元の府中市在住ということもあって、私は初回の講師のほか、あとに続く各回の講座の司会をも担当させられたので、各講師の熱意のこもった講義の概要と講座全体の流れとを一通り押さえることはできた。必ずしもその折の講義の本旨にそって発せられたものばかりではなかったけれども、各講師はそれぞれに含蓄のある短い言葉を残しもした。個々の言葉の背景についての詳しい解説は省略するが、たとえば、それらは次のようなものであった。

 「この谷の土を喰いこの谷の風に吹かれて生きたい」(渡辺淳)
 「新聞記者に必要なものは正義心ではなく好奇心である」(清水建宇)
 「我々は言葉に毒され尽している。対象物から何重にも絡みつく言葉を剥ぎ取っていくとき、はじめてその存在の本質に迫ることができる」(別役実)
 「人間の無意識領域はきわめて深遠である。その無意識領域の奥底から言葉が発せられた時のみ、その表現は命をもつ」(芹沢俊介)
 「目に障害はないほうがよいにきまっている。しかし、逆境にあるがゆえにこそ知覚できる世界もある。視力を損なわなかったら私はヴァイオリニストにはなっていなかったに違いない。楽譜を目で追えない私はまず曲全体を暗譜してから音を磨き深めていく。譜面通りに弾くだけではよい演奏はできないから、結果的には目が不自由なことがプラスに作用しているのかもしれない」(川畠成道)
  ここまで書くと、「じゃいったいお前はどんな言葉を残したんだ?」という厳しい追及にさらされかねないのだが、どう振り返って見ても特筆に値するような言葉など吐いた記憶がないのである。ただ、あえて挙げるとすれば、「我々は明証性があるがゆえにその物事を正しいと感じるのではない。明証性の前提となる概念を正しいと信じているがゆえに明証性があると感じているだけのことである。すべては定義にはじまり定義に立ち戻るのだ」といったようなことは述べたかもしれない。
 
  フィナーレの川畠成道さんの講座は一段と盛況だった。噂を聞きつけてやってくる駈け込み聴講者を予想して、この日は会場となった研修室に最大限収容可能な百四十席が設けられたが、それでもたちまち満席になる有様だった。場所が場所だったので、当初、川畠さんには講演だけをしてもらうつもりでいたのだが、ご本人の特別な配慮もあって、講演のあとヴァイオリンまで弾いてもらえるという願ってもない話になった。こんな「棚からぼた餅」的展開は望んだってそうそう叶うものではない。そこで府中市の担当者に依頼し、会場となる研修室に急遽伴奏用のアップライト・ピアノを搬入してもらうことにした。
  三日後の十二月二十日に川畠さんは名古屋でリサイタルを開くことになっていた。そのリサイタルで共演するためにベルリン在住のピアニスト、山口研生さんが前日帰国したばかりだったが、なんと、ご両親の正雄さん麗子さんのほか、その山口さんまでもが川畠さんと一緒に来場してくださったのだった。また、会場には川畠さんが不慮の薬害事故に遭遇した際共にアメリカ旅行中だったというオバア様の姿もあった。
  開場前、川畠さん一行に会場の配置やピアノの設置状況などをチェックしてもらったのだが、音楽にはまるで素人のにわか設えだったこともあって、ピアノの向きが逆になっていたりもしていた。そこで、市の録音担当技師に私と正雄さん、さらには山口研生さんまでが加わって大急ぎでピアノの向きと位置を変えるというおまけまでがつく有様だった。状況的にやむを得ないことではあったのだが、演奏前に演奏者のお父様や共演ピアニストにピアノの移動を手伝わせるなどという前代未聞の椿事が裏では起こっていたのである。
  ピアノの位置が定まると、ブラームスのハンガリア舞曲の一部を用いて三、四分ほど簡単な音合わせが行なわれた。講演終了後に山口研生さんから直接伺ったところによると、ドイツから日本に戻ったばかりでまだ時差ぼけ状態だったうえに、譜面も当日に川畠さんサイドから渡されたのだそうである。それでも難無くその状況に対応してしまうところなどはさすがプロの業というほかない。桐朋学園時代には山口さんは川畠さんの二年先輩で初共演は同学園在学中だったというから、お互いの呼吸はある程度わかってはいるのだろうが、それにしてもたいしたものである。麗子さんの話によると、山口さんは初見の楽譜をその場で鮮やかに弾きこなすという稀有の才能の持ち主でもあるということだった。
  いったん控え室に移り楽服に着替えた川畠さんを案内して定刻に講演会場に入ると、大きなどよめきに混じって、「ほんとだーっ!」という呟きとも溜息とも判別し難い声があちこちから漏れ響いた。テレビにラジオさらには諸々の新聞や雑誌にと、いまや引っ張りだこの川畠さんの姿を一地方自治体の生涯学習センターの講座で間近に見ることができるなんておそらく受講者にとっても望外のことだったろうから、実際にその目で確かめてみるまでは半信半疑だった人も少なくなかったのであろう。
  川畠さんが肩にしたヴァイオリンケースを床におろして席に着くと、会場から一斉に拍手が湧き起った。そして司会の私の簡単な紹介が終わると、川畠さんはすぐによく通る声で話し始めた。落着いた口調といいその言葉遣いといい、実に堂々たる話し振りである。テレビやラジオにはもう何回も出演しインタビューなどもずいぶんと受けている川畠さんだが、二時間にわたって単独の講演をするのはこの時が初めてということだった。むろんそれを承知で私はこの日の講演を依頼したようなわけでもあった。
  あらかじめお頼いしてあった講演テーマは「私とヴァイオリン」というものであったが、演奏会やマスコミ各社の取材、依頼原稿の処理などで講座の前日までスケジュールがびっしりだということでもあったので、自然の成り行きにまかせぶっつけ本番で好きなように話してもらうことになった。そうしたほうが受講者にも本来の川畠さんらしさがうまく伝わるだろうという思いが私のほうにもあったことは言うまでもない。

  話はキカン坊だった幼年期の回想から始まった。そして旅先のロサンゼルスで薬害事故に遭遇してカリフォルニア大学メディカルセンターに緊急入院、そこで生死の境をさ迷った時のつぶさな状況、奇跡的な生還の代償に視力を損なって帰国したことなどが、淡々とした調子で順を追って語られた。実に端正な日本語で言葉の選択も驚くほどに的確である。ハンドマイクを手に話すその姿勢もピーンと背筋が伸びていて、すぐ脇に並んで座っている私などは思わず恥じ入る始末だった。
  続いて十歳でお父さんにヴァイオリンを習いはじめ、一日十時間以上の猛特訓に耐え抜いた頃の想い出が語られた。当初は模造紙に描かれた大きな五線譜なら辛うじて読み取ることができたので百枚近くも音符を記した模造紙を用意して練習していたが、マジックの臭いが異様なまでに部屋に立ち込め大変だったこと、そしてほどなくそれさえも出来なくなり、その後は聴音による暗譜に頼るしかなくなった状況などが、川畠流のユーモアを交えながら次々に紹介された。川畠さん自身が自分本来のリズムと言葉で心の奥の思いをじっくりと聴衆に向かって語りかける感じだったので、テレビなどのドキュメント番組などとはまた違った妙味があって、耳を傾ける人々の表情もなごやかでしかも真剣そのものだった。
  講演のあとになって、「うちの子供は幼い頃から始めたヴァイオリンを十歳でやめたけど、川畠さんは十歳で始めてこの凄さ……天才と凡人の違いはやっぱりそのへんにあるのよね」と言って周辺を笑わせた知人がいたが、まさに言い得て妙というところだろう。表現力豊かなうえにほとんど乱れの見られない言葉の流れをすぐそばで聴いている私には、この人の本質的な頭の明晰さとでも言うべきものが偲ばれてならなかった。
  桐朋学園高校時代の体育の時間、球技やトラック競技などが思うようにできない川畠さんには教師から特別メニューが課せられていたという。そのメニューはマンツーマンの指導でこなされることにはなっていたのだが、マラソンや登山などのノルマがたっぷりと組み込まれた相当にハードなしろものであったらしい。ある時、学友の一人が茶目っ気を起こして同じ体育の個人授業を体験してみることになったのだが、たった一日で根をあげギブアップしてしまったというエピソードなども披露された。辞書類を使うことができないため、語学の勉強などにも人知れぬ苦労があったようである。入学時、お前を他の者と差別はしないと宣言し、厳しいトレーニングを課した当時の教師にいまは心から感謝していると語る川畠さんの表情はみるからに爽やかで清々しかった。
  桐朋学園音楽大学卒業後、英国王立音楽院の大学院に留学することに賛成だったのは正雄さん麗子さんの御両親と桐朋音大時代の恩師江藤俊哉さんの三人だけで、ほかの人々は皆反対だったのだという。結果的には英国留学が川畠さんの飛躍的成長につながったわけだが、それを陰で懸命に支えたご両親とご家族に対する感謝の気持ちを川畠さんははっきりと述べ伝えてもいた。とくにお母さんの麗子さんなどは、川畠さんの身の回りの世話をするだけではなく、王立音楽院の授業に一緒に出席することを義務付けられてもいたのだそうだから、そのご苦労のほどは並大抵のことではなかったに違いない。
  十分ほどの休憩をはさみ川畠さんの講演はほぼ二時間にわたって続けられたが、最後までその話は会場の人々の心を強く惹きつけて離さなかった。イギリスでの勉学や生活の状況、彼我の音楽環境の相違点、音楽表現に対する自分の姿勢と理念などが折々ウィットを交えて語られた。そして、最後に、将来どうするつもりかとよく尋ねられることがあるが、何が起ころうと先々のことは運命の赴くままに任せるしかないのであって、自分としてはベストを尽して現在を生き、演奏家としてできるかぎりの研鑽を積むことしか考えていないといった主旨のことが述べられた。
  川畠さんは講演のなかでご両親やご家族に対する深い感謝の気持ちを何度も繰り返し述べておられたが、私にはそれがこの講座を機にした川畠さん自身の精神的自立宣言でもあるように感じられてならなかった。講師席にあって、私は会場の奥のほうに目立つことなく座っておられるご家族のご様子などをさりげなく拝見したりもしてもいたのだが、ある種の決意表明とも思われる川畠さんの堂々たる言葉の一つひとつに、半ば驚きの表情を浮かべておられたのが印象的でもあった。

  講演を終えた川畠さんは、二百三十年前にイタリアで造られた名器ガダニーニをケースからそっと取り出した。以前に私が三鷹市のお宅を訪ねた折、試しに触らせてもらったのはいいものの、緊張のあまり手が震えてならなかった例のシロモノである。川畠さんはこの名器を一応ヴァイオリン専用のケースではあるが、一見してどこにでもありそうな布地のケースに入れて持ち歩いている。小間物様の小さな飾りのついたそのケースの肩紐の付根あたりは、ちょっとほつれたりしていて、知らない人などが外から見ただけではその中に貴重なヴァイオリンが納まっているなどとは想像もつかないことだろう。見るからに高級そうなピカピカの皮製ケースなど使っていないところがいかにも川畠さんらしい。
  川畠さんは、山口研生さんのピアノ伴奏のもと、ブラームスの「ハンガリー舞曲第一番」、グルックの「精霊の踊り」、そして前日にヴィクターから発売されたばかりの二枚目のCDタイトル曲、グノー作曲「アヴェ・マリア」の三曲を次々に弾いてくれた。音響も何も特別配慮さられていないごく普通の研修室における演奏であったにもかかわらず、その神聖としか言い様のない奇跡的な弦の響きに会場の誰もが感動し圧倒された。目に涙を浮かべ身じろぎひとつせずに演奏に聴き入っている人が、ちょっと見まわしただけでも相当数見受けられもした。
  演奏会やテレビで見る場合とちがって、演奏中の川畠さんの一挙一動を、その息遣いを含めてすぐそばからつぶさに眺め味わうことができたのも、その場に居合わせた幸運な聴衆にとっては感激だったろう。講座終了後に受講者は皆が皆、様々な感動と称賛の言葉を残して帰っていったが、それらの人々の想いは、「久々に精霊が自分の身体の中に戻ってきてくれました」というある受講者の短い一言に集約されていたと言ってもよいだろう。



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