「マセマティック放浪記」 1998年12月23日
Mathematics Odyssey December 23, 1998
変貌していた故郷 

  近島という無人島が前方左手に大きく近づいてきた。子どもの頃、時折漁船でこの島に渡り、その荒磯で魚貝類や海草などをとったものだ。断崖に囲まれた近島を過ぎると、甑島本島第一番目の寄港地、里港はもう間近い。トンボロ地形(陸繋島)の頸部砂州上に発達した里村集落を視界の奥にとらえた私は、下船準備準備のため、車を駐めてあるフェリー船倉へと降りて行った。そして、車のエンジンをかけ、船の接岸を待った。年甲斐もなく妙に緊張を覚える一瞬だった。
  降車口の重い扉が開いてしばらくすると、下船可能のサインがでた。私はアクセルを踏み込んでいっきに乗降用ブリッジを走り抜けた。二十数年ぶりの帰島第一歩は、まるい四つの足が頼りの、なんとも不粋なものになった。見違えるばかりに近代化され、整備の行き届いた港周辺の駐車場には、たくさんの車が駐まっていた。昔は車そのもがほとんど存在しなかったから、その変貌ぶりにはただ驚くばかりだった。
  私より一歳年長の塩田忠人さんという地元の郵便局長が、目ざとく私を見つけて車に駆け寄ってきた。お互い歳をとったもんだなあと言わんばかりに一瞬顔を見合わせ、それから長年の非礼を詫びる挨拶を交わした。やはり郵便局長を務めておられたこの方の父君には、肉親をすべて失い天涯孤独の身になったとき、心からの励ましと支援を賜った。二・三人の教育委員会の方々にも丁重にお出迎えいただいたのだが、それに適うような人品にはほど遠い私は、いささか気恥ずかしくなっておろおろするばかりだった。
  かつては「松原」と呼ばれ、松並木の道をはさんで玉石の浜辺と大きな共同墓地が広がっていた一帯は、いまでは村の中心地に変わっていた。そして、甑島航路のフェリー用岸壁はそのほぼ中央付近に配置されていた。地形上、海からの風当たりも強く、人魂や火球出現の噂が絶えない淋しい場所だった松原の驚くばかりの変容は、ここ三十年ほどの間に島内で起こった、さらには国内各地の島々で起こった急速な変化を象徴しているように思われた。私には、物語の主役を降ろされ、隠れ家を失ったお化けたちの戸惑いが目に見えるようだった。
  フェリー岸壁のすぐそばには、村一番の近代的宿泊施設である白亜の甑島館が建っていた。近年湧出した甑島唯一の温泉が売り物の数階建てのホテル施設は、なかなかに立派なもので、村の交流センターをもかねていた。私たちはこの甑島館四階の奥にあるツインルームに案内された。トンボロ地形とその両側に広がる海が一目で見渡せる部屋で、室内の造りも調度も一流ホテル並みである。旅先では車中泊も多く、泊まるにしても通常は安宿しか利用しないことにしている身には、分不相応なことこの上なかった。
  私の育ったこの里村は、一村一集落という全国でも珍しい形態の村である。以前の人口は三千人をゆうに超えていたのだが、過疎化の進んだ現在ではその数は千六百人ほどに減少している。この村に古くからある武家屋敷跡通りのなかほどに、私が育った屋敷の跡が雑草の深く生繁る空き地となって残っており、そこから徒歩で十分ほど離れたところの小高い丘に、いまも母方の祖父母や母が眠る墓地がある。甑島館で一息ついた私と息子は、なにはさておき、まずは墓参に出向くことにした。
  戦前後の複雑な事情も重なって、終戦直前に都会から甑島へと移った我が家の暮らし向きはずいぶんと厳しかったが、名ばかりは旧家だったこともあって、墓の数だけはやたらとあった。かなり離れた二つの場所に合わせて四段もの墓地があり、少なく見積もっても大小の墓石が数十基はあっただろう。そのほかにも代々守り継がれてきた独立墓が二カ所ほどあった。子どもの頃には年に何度か祖母に連れられ、掃除と墓参をかねた墓めぐりをしたものだが、深く腰の曲がった祖母と幼い私にとっては、その役目はけして容易なことではなかったように記憶している。
  まさか墓石をかじって生きていくわけにもゆかないし、遠く離れた東京で苦学する天涯孤独の身にそんな墓地の管理などできるはずもないというわけで、大学時代にそれらの墓所のほとんどを地元の人に差し上げるなどして、現在残る一段の墓所だけにまとめてしまった。先祖の墓を粗末にすると祟りがあるとか、島に帰って墓を守るのは子孫の義務だとかいった様々な苦言を頂戴もした。だが、私は、「冗談じゃない。十分な資産でも残してくれたのならともかく、独りぼちでとり残され、日々の生活も大変だというのに、ご先祖様が墓を粗末にしたと化けて出たり、祟ったりするなら、こちらのほうが逆に祟り返してやるわい!」と大いに開き直ってしまったのだった。
  現実には、現在残る墓所でさえも管理するのが容易でなく、村の一部の方にはずいぶんとご迷惑をかける結果にもなった。祖父母や母たちはもともと横浜で暮らしていたのだし、地元の人にもこれ以上迷惑をかけられないというわけで、なんとか費用を工面して八王子に墓地を買ったはみたが、甑島特有の難しい地縁の問題などもあって、いまだに墓地移転を果たしてはいない。後陽成天皇寵愛の女性をめぐる猪熊侍従事件に連座し、慶長十四年甑島に配流された大炊御門中将藤原頼国というややこしい人物の墓などが私の墓地内にあったりするものだから、話がいそう面倒なことになっている。
  心の問題と考え、自宅にある先祖の位牌はそれなりに大事にしてきたが、二十数年もの間、墓参に戻ってこなかった不肖の子孫であることには間違いない。ただ、不肖なこの身にも不肖な身なりの生き方はあるし、現代を生きる妻や息子や娘にはまたそれなりの人生があるから、島に帰れと言われてもいまさらそれは無理である。墓中の霊には申し訳ないが、不本意だろうがなんだろうが結局はこの墓地は近いうちに引き払うしかない、という思いにかられながら線香をそなえてまわるありさまだった。
  墓参の帰りに昔の住居跡に立ち寄ってみたが、その一帯は荒れ放題に荒れ、見るかげもない状態になっていた。懐かしさもあって、深い草を掻き分けながら、かつて井戸のあったあたりに近寄り遠い想いに耽っていると、近所の人が慌てて飛んできて、「油断しといやいもすちゅ〜と、マムシが出もうすどぉ〜。噛まるいぎ〜に、大変やいもすどぉ〜(油断してるとマムシが出ますよ。噛まれたら大変ですからね!)」と、大声の島言葉で注意してくれた。想いは複雑だったが、「子どもの頃ここに住んでいたんですよ」とも言い出しかね、素直に相手の忠告にしたがってその場を退散することにした。
  甑島館に戻ってみると、夕方六時から地元に住む中学時代の同期生十余人が集まって歓迎会を開いてくれる旨の連絡が入っていた。昔の仲間と再会できるのは嬉しいが、歓迎されるにふさわしい身ではないし、歓迎会とはいっても焼酎という名の「アルコール性芋ジュース」による「燗迎会」にきまっているから、アルコール恐怖症の私は、半分逃げ出したいような気分になった。
  時計を見ると、六時までまだ三十分ほどあったので、旅の汗を流すべく、大急ぎで温泉に飛び込んだ。赤黒い色をした独特のナトリウム・カルシウム塩化物泉は、見るからに身体に効きそうで湯加減も上々だった。ただ、あまりゆっくり湯にひたっている時間はないので、もう一度入浴しなおせばよいと思い、十分ほど湯につかっただけで浴室を飛び出した。甑島館での三泊をはじめとし、島内で六泊したのだが、ここの温泉にはいることができたのが後にも先にもこの十分間だけになろうとは、私自身夢にも思っていなかった。



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