「マセマティック放浪記」 2000年10月11日
Mathematics Odyssey October 11, 2000
瀬戸内島なみ海道
  八月下旬のある日、町おこし事業取材のため愛媛県広見町へと向かう途上にあった我々は、山陽道福山パーキングエリアで車中泊したあと、尾道市街の少し手前で西瀬戸自動車に入った。我々とはいっても私のほかには同行の三嶋洋さんがいるだけだったから、いたって気ままなマイペースの旅ではあった。
  三嶋洋さんは東京育ちだが相当に変わったキャリアをもつ豪放な人物で、アルコールのほうも底無しに強い。若い頃、オペレーション・リサーチの専門家として日本開発銀行の研究部門に勤務、有能な仕事ぶりで将来を嘱望されるが、ある時期に突然辞を職して家族共々自然の豊かな沖縄西表島に渡ってしまう。日本開発銀行時代の親しい同僚には竹中平蔵現慶応大学教授などもいた。西表島ではすっかり地元の人々の中に溶け込み、漁師とダイビング・インストラクターをやるかたわら、ささやかな民宿などを開いていた。ところが仕事のために購入してまもないモーターボートに欠陥があり、それも一因となって嵐の海で遭難、ボートが海中に没し去る寸前に自衛隊のヘリコプターに救出さるという事態になった。
  しばらくして、ボートの販売責任元であった小松製作所に補償問題の交渉のため上京するが、その際に三嶋さんの異能を高く評価した小松製作所本社からの懇請があって、結局、同社の海洋関係の技術研究開発部門に勤務するようになった。実を言うと、沈没したモーターボートの補償問題をうやむやにしたうえに三嶋さんを丸め込んで小松製作所にスカウトしてしまった張本人の原田紀彦さんは旧来の私の知人で、当時小松製作所 本社の要職にあった。熊本県天草地方出身のこの原田さんは大変な切れ者の紳士であるが、空手五段という武道家で、これまた豪放磊落な人物である。
  三嶋さんは小松製作所で様々なプロジェクトを成功させて業績をあげたあと、昨年同社を退き、現在は東京農大の水産学関係の教授と冷凍技術関係の共同研究を進めながら同大の大学院で学生の指導をしたりもしている。現在愛媛県広見町で計画中の町おこし事業に四国総合研究所とタイアップしてこの三嶋さんが協力中のため、渡りに舟と広見町への案内役を買ってもらったようなわけだった。三嶋さんは昔から、仕事で出張したり重要なポストにある人物と会ったりする時でも、かなりくたびれたジーンズにシャツというおきまりの姿で通している。その点でも私とはたいへんにウマが合うわけだ。この日も三嶋さんは髪をうしろでまとめて結わえ、裾のほつれたジーンズの短パンに横縞のポロシャツという海賊ルックに近い出で立ちだった。
  本土と向島とをつなぐ尾道大橋渡ったのは午前八時頃だったが、おりからの晴天とあって、晩夏特有の強烈な陽射が車窓越しに差しこんできた。左右を見まわすと、大小の島々や複雑なかたちをした入江、さらには激しく潮の流れ動く瀬戸などが眼下いっぱいに広がっている。予想にたがわぬ美しい景観だ。さすが「瀬戸内島なみ海道」の愛称をもつだけのことはある。言うまでもないが、西瀬戸自動車道は本州と四国とをつなぐ三つの自動車道路の一つで、芸予諸島のうちの向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島の六島をステップ・ストーンにして本州の尾道と四国の今治とをつないでいる。
  向島と因島との間に架る因島大橋にさしかかる頃には、明るい夏の太陽のもと、瀬戸の島々と海々の織りなす風光はますます明媚の度を深めていった。意識的に車の速度を落とし、ゆっくりと因島大橋を渡り終えると、我々はいったん西瀬戸自動車道をおりて因島市街への道をとった。せっかくだから、因島市中庄町寺迫にある水軍城を訪ね、村上水軍関係の資料でも見学していこうということになったからである。目指す水軍城は因島村上氏の菩提寺金蓮寺を見下ろす小山の頂きに建っていた。駐車場で車を降りた我々はタイムスリップした気分でその小山の山頂目指して歩きだした
  ラジオのニュースで気温が三十七度を超えているのは知っていたが、こんなにも激しく肌を刺す直射日光に身をさらすのは久々のことである。南国の島育ちの身だから、昔ならたとえ強烈な陽射の中でも小山の一つや二つ駆け登るなんてなんでもないことだったのだが、やはりこの歳になると、こんなカンカン照りのもとで急峻な斜面を縫う小道をいっきに駆け登るだけの気力はない。だが、それでも我々は休むことなく水軍城の建つその小山を登りつめた。
  現在の因島の水軍城は昭和五十八年に築城再現され、村上水軍関係の資料館となっているもので、往時のままのものではないが、昔はこのような水軍城が芸予諸島の複雑な入江や瀬戸を見下ろす要所要所に多数存在していたらしい。いまではこの水軍城のある小山から直接に見下す一帯はすっかり市街地化が進み、海岸線もずいぶんと遠くに退いてしまっているが、往時にはすぐ直下の谷筋まで深い入江がのびてきていたらしい。
  瀬戸内海には千個に近い大小の島々があるが、そのうちの七割近くが芸予諸島に属しているという。芸予諸島とは、広島県南部から愛媛県北部にはさまれた海域にあって入り組んだ地形をなして密集する群島のことである。じっくりと地図を眺めてもらえばわかるのだが、好き勝手な形をした島々がゴチャゴチャと存在していて、主要な島の名前と位置を憶えるだけでも容易ではない。その芸予諸島の間を縫うようにして多岐多様に分かれる細い水路がくねくねと走っているのだが、それらの水路をうまく通って一帯を東西方向に抜けるのは、正確な海図やGPSと強力なエンジンを備えもつ現代の船にとっても容易なことではないだろう。
  資料でみるかぎり周辺の潮の動きもおそろしく複雑なようだから、櫓や帆に頼るしかなかった昔の和船でこの海域を無事に通り抜けることは、一帯の地理や潮流の変化にうとい者にはきわめて困難だったに違いない。博多津から関門海峡、周防灘、伊予灘、さらには瀬戸内、播磨灘、難波津とつなぐ当時の海上交通の主要路を利用する場合、どうしても芸予諸島と塩飽諸島(岡山県と香川県にはさまれた海域の島々)を通過しなければならず、必然的に両諸島海域は交通の難所になると同時に交通の要所ともなった。水路が狭くて複雑で潮流の変化の激しい芸予諸島一帯の場合はとくにそうであった。
  これらの島々に住み、周辺海域の水路や潮流の動きに詳しい海人たちが、付近を航行する船が多くなるにつれ、それらの船の水先案内をしたり警護をしたりするようになったのは当然のことであった。芸予諸島は耕地も少なく、また、当時の漁業は技術的にも未発達で天候や季節にも大きく左右されることが多かったから、島での生活はたいへんに厳しいものであった。したがって、人口が増加するにともない、多くの島人たちが、一帯を航行する船の水先案内や警護を務めることによって警固料(警護料のこと)と称する一種の通行税を徴収し、生計を立てようとしたのは自然のなりゆきだったろう。
  警固衆とも呼ばれた彼らが、状況次第ではいわゆる海賊行為に走っただろうことも想像に難くない。場所が場所なうえに、操船術においても地理的な知識においても彼らのほうがはるかに長じていたわけだから、たとえ海賊行為をはたらかれたとしても手のうちようがなかったに違いない。八六二年頃には山陽南海に海賊衆が頻繁に出没したとの記録があるようだから、かなり昔から一部の海人たちは海賊行為をはたらいていたようである。
  当初の海賊は単発的で無統制だったらしいが、時代の移りとともに多くの警固衆が海賊衆としての一面を持つようになるにつれて、彼らは組織的な集団を形成し、さらにそれらの集団の結合体を構成していった。やがて彼らは海上主要航路に臨む島々の要所に城を構え、一種の水軍としての性格をもつようになっていったのである。そして、中世に至ると高度に組織化された彼らは陸地部の封建勢力と提携したり拮抗したりするようになり、一門は相互に緊密な連携態勢をとりながら瀬戸内海一帯において強大な勢力を誇るようになったのだった。
  水軍の活躍がとくに目立つようになったのは南北朝時代以降のようで、室町時代から戦国時代にかけてその活動は最盛期を迎えるところとなった。とくに室町末期から戦国時代にかけては、伊予衆とよばれる四国寄りの海域を本拠としていた海賊衆が北方の向島や因島一帯にまで勢力を拡大し芸予諸島全域を支配するようになった。そして伊予衆のなかでもひときわ大きな勢力を誇るようになったのが、能島・来島・因島の三島をそれぞれの本拠地とする村上氏支配下の海賊衆である。「村上」という同一姓を名乗るそれら三島の海賊衆の頭領たちは同門意識をもって連帯結集し、やがて村上水軍として瀬戸内海中央の全海域を制圧するに至った。
  毛利元就と陶晴賢とが覇権を争った厳島の合戦において毛利方についた村上水軍は、毛利軍が折からの暴風雨をついて海を渡り陶陣営を急襲するのを助けるとともに、兵船三百艘を配して陶軍の退路を遮断、同軍を殲滅するという武功をたてて一門の力のほどを広く世に示し、その存在を確固たるものにした。全盛期の村上三家の水軍が支配海域であげた警固料や通行税の総額は石高換算で四十万石以上にものぼったという。
  水軍城資料館には、大阿武船(おおあたけせん)と呼ばれた村上水軍の代表的な軍船の模型が展示されていた。長四角の大きな帆の中央には「上」の一字を丸で囲った村上水軍の紋章が描き染められている。この紋章を見ただけで震え上がった船人たちも少なくはなかったろう。船長は二十六メートル、船幅九メートル、約二百トンの大きさがあり、動力は帆と多数の櫓であった。この船一艘には将士が二十〜四十名、水主(かこ)が七十〜百三十名乗り組んでいたようである。また、武装として口径十五センチの主砲のほか火箭(かや)なども搭載してあった。
  復原模型によると、上部は二層の造りになっており、一層の部分はその屋根をもかねている甲板の下側にあって、必要ならば両側面に開閉式の板戸を立てて完全に閉鎖し内部を守ることのできる構造になっていた。この構造によって大浪や風雨を避けることができたばかりでなく、戦闘の際などに敵の急襲を防ぐことができた。また逆に、側面全体を閉鎖したまま敵船に近づいて接舷し、一斉に側面の板戸を開いて襲いかかり、相手の船に乗り移ってそれを占領することも可能だった。この一層部に将士や水主のほとんどが乗っており、両舷側には二十、三十丁もの長い櫓をたてることができるようになっていた。もちろん、櫓の漕ぎ手の姿は外側からは直接に見ることはできないから、外敵の矢や鉄砲による攻撃からも身を守ることができたに違いない。
  一層部の上を覆う甲板の中央には大きな帆と帆柱が立っており、その前方には現在の船のブリッジに相当する大きな四角柱状の二層部分が設けられている。そしてこの二層部はさらに二層に分かれていたようだ。この部分には水軍の頭領や直属の上官たちが陣取り、海上一帯を睨みながら操船命令をはじめとする全体的な指揮をとっていたものと思われる。多数の櫓を使う場合、個々の漕ぎ手には直接船外の状況が見えないから、この二層部の指揮官からなんらかの方法で命令が伝達され、それに応じて櫓を漕ぐときの力の加減や微妙な操櫓の調整などがなされていたものだろう。
  展示資料の中には村上水軍の用いた「一品流水軍集」という兵法書などに基づく船団の陣形配置図なども見うけられた。司令船以下の属船に各々の役割を表わす漢字を当てて識別できるようし、それらの文字を大きなV字形、あるいは大小のV字形を複合した形に配列して陣形を示してある。展示されているのは兵法書にある陣形のごく一部で、他にも様々な陣形があったようである。鉄の結束を誇った彼らは、日々の戦いの連続の中で常に新しい戦術を編み出すように工夫のかぎりを尽し、それを秘伝、口伝として後世に伝えもした。兵法書の冒頭には、「船に乗る事は天の利を先とし、地の利を考えるべし。軍の始むる人の和を先とし、後に天地の利を考えるべし」という心得なども示されているようだ。
  海賊衆といえば聞こえはわるいが、海という地理的利点を最大限に活用することによって、村上一門の水軍衆は、その時代の封建制度の枠からはずれた自由人の集団としての一面を持っていたと言ってよい。一部の権力者によって一方的な収奪や有無を言わさぬ強権支配が行われていた時代であったことを思うと、彼らが折々海賊行為という非合法行為を犯したとはいっても、それは時の支配者たちの立場から見た非合法行為であり、窮乏生活に苦しむ当時の庶民の目からすると、必ずしも否定されるべき行為ではなかったのかもしれない。
  驚くべきことに、一五四三年の鉄砲伝来後にその情報を得た因島村上水軍は生口島垂水の桑原家に鉄砲を製作させ、いちはやく独自の鉄砲組を組織するとともに、のちの勘合貿易においては製造した鉄砲を中国にまで輸出していたらしい。単に警固料や通行税を徴収するばかりでなく、水軍みずからも広く国内他地域や国外との交易を行い、収益をあげていたのである。
  資料館に展示されている各種具足類の中には、「純金家紋付き鉄錆地色具足」という立派な鎧兜一式や、巨大なホタテ貝の貝殻を兜飾りにしつらえた珍しい造りの「ほたて貝兜」などもあった。いずれも村上水軍ならではの時代背景が偲ばれる逸品で、なんとも興味深いかぎりではあった。水軍資料館を出たあとは金蓮寺裏手にある因島村上水軍一門の眠る墓所の古石塔のまえに佇み、とりあえず彼らの霊に敬意を表した。
 
  水軍城をあとにした我々は再び西瀬戸自動車道に上がり、生口橋を通って生口島へと渡った。この島の瀬戸田町には耕三寺と平山郁夫記念館があるので、せっかくだからそこを訪ねてみようということになった。そしていったんはすぐ近くまで車を走らせた。しかし、なにやらたくさんの土産物屋が軒を連ねて建ち並び、付属する有料駐車場への呼び込みも結構激しい様子だったので、気の弱い(?)我々二人はその雰囲気に臆して結局そのまま同地を通過してしまった。平山郁夫画伯には申し訳なかったが、もう少し静かな時期にあらためて記念館を訪ね、ゆっくりと展示作品などを鑑賞したいと思ったことなども入館を控えた理由の一つだった。自動車道が整備され多数の観光旅行者の到来に期待する地元の人々の気持ちも、それなりの事情も十分にわかるのだが、せめて瀬戸内の島々のすてきな人情と風情だけは損なわないようにしてほしい。もっとも、その積極性こそが村上水軍以来の島の伝統的精神だだと言われれば返す言葉もないのだが……。
  生口島から多々羅大橋を渡って大三島にはいる頃には瀬戸内の陽射はますます強烈になってきた。直射日光のあたるところの気温は予想気温の三十七度をとっくに超えているはずだった。この大三島には大山祇(おおやまづみ)神社という有名な古社がある。この由緒ある神社に古来奉納されてきた鎧兜などの武具類は国宝や重要文化財の指定をうけているものがほとんどで、たいていの日本史の教科書や資料集などにはそれらの写真が掲載されている。目的地までまだかなりの距離があるのでそうそう時間はとれそうになかったが、ついでだから大山祇神社にだけは参拝して行こうということになった。むろん、厚い信仰心のゆえにというのではなく、ひとえに物見高さのゆえである。
  自動車道をおりてから大三島の西海岸にある宮浦という集落方面に向かって二、三十分ほど走ると、大山祇神社近くのだだっ広い公営駐車場に着いた。よく整備された広大な駐車場なのだが、なぜか妙にガランとしていて車の影はほとんど見当たらない。八月の終わりという時期のせいもあったのだろうが、もしかしたら観光客の増加を見込んで過剰整備した結果だったのかもしれない。そんなことを考えながら車から降りると、途端に猛烈な熱気が襲ってきた。
  燦々と降り注ぐ陽光によって眩いばかりに照らし出されていたが、よく手入れの行き届いた大山祇神社の広い境内は意外なほどに静かだった。さすが格式のある神社だけあって境内全体に落着いた雰囲気が漂っている。拝殿前の内庭へと通じる神門の手前には天然記念物の大楠があった。どうやら皇紀年号にかこつけたものらしい二千六百年という樹齢の説明を額面通りに信用する気にはなれなかったが、それはともかく、こんな見事な楠を目にするのは久しぶりである。しばしその楠の大木のまえで足を止めたあと、我々は神門をくぐり抜け、奥のほうにある拝殿のほうへと歩を運んだ。


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