「マセマティック放浪記」 1998年12月16日
Mathematics Odyssey December 16, 1998
近づく故郷に…… 

  関門海峡越しに門司側を望む壇ノ浦パーキングエリアに着いたのは夕刻のことだった。秋の日脚は想いのほかはやく、激しい潮流で知られる海峡一帯はすでに夕闇に包まれていた。パーキングエリア内の展望台に立つと、大きな川を想わせる関門海峡の両岸には、色とりどりの明かりがそれぞれの存在を訴えかけるかのように点々と輝いて見えた。
  E5というオレンジ色の大きな文字の浮かぶ電光表示板は、通過船舶に対し、いま潮流が東に向かって5ノットの速さで流れていることを伝えているのだろう。潮流に逆らい西向きにジワジワと動く赤や青の船舶灯は、まるで帰郷の途にある自分の姿そのもののようにも思われた。左手上方を見上げると、途方もなく巨大な鉄骨を組んで造った関門橋が、潮流を跨いで南へと一直線に伸びている。ライトアップされてはいるが、向こう岸近くの橋梁部は闇にのまれてほとんど見えない。この橋を渡ればもう九州だという思いと、渡らずにそのままずっとこちら側に留まっていたいという思いとが、なぜか胸中で複雑に交錯していた。
  関門海峡を渡り北九州に入ると、夜の九州自動車道路をいっきに南下し、熊本県人吉市の少し手前にある山江パーキングエリアに車を駐めて睡眠をとった。翌日は鹿児島北インターチェンジを経由して東支那海に面する串木野市へと出た。昔は金鉱山のある町として知られていたところである。
  私が中学生になる頃までは、旧国鉄の串木野駅から甑島航路の乗船場のある串木野港まで乗り合い馬車が走っていた。数人乗りのこの箱型馬車の速度はけっこうなものだったように思う。パカパカパカパカという高らかな蹄の響きと馬車本体のギシギシと揺れきしむ音が、いまも耳元に残っている。ただ、たくさん走っていたその名物の乗り合い馬車も、私が高校に進む頃にはすっかり姿を消してしまった。
  いまはすっかり近代化の進んだ市街地を走り抜け、串木野新港にある甑島フェリーの乗船場に着いた我々は、乗船手続きをすませるため車を降りた。もう十月末だというのに、なんと日差しの強烈なことだろう。昔もこんなに暑かったっけと思いながら、東京を出るときに着込んだセータを脱ぎ捨て、長袖シャツの袖をまくりあげた。
  二十数年ぶりの帰郷にくわえ、ジーンズにサングラスというラフないでたちとあって、私が誰だかわかる人はいないだろうとたかをくくり、待合所の片隅に腰かけて旅行メモなどをとっていると、突然、「シゲチカさんですか?」と誰かが呼びかける声がした。ギクリとして顔を上げると、眼鏡をかけた白髪の老紳士が立っている。一瞬相手の顔を凝視した私は、反射的にサングラスをむしりとると、お尻をバネで弾かれでもしたように立ち上がった。呆気にとられたように息子が横目で私のほうを見やっている。
  なんと、その紳士は、子どもの頃に我が家にもよくみえた地元出身の国語の先生で、現教育長の中村順一先生だったのだ。聞けば、出張で本土に出向いた帰りだという。帰郷途中で真っ先に出会ったのが村の教育長という予想外の事態に、私は虚を突かれた思いでその場にたたずむばかりだった。「あの頃はまだ小さな子どもだったのに、いつのまにか、こんなふてぶてしい大人になりおって……。こりゃ、講演に呼んだのが間違いだったかな?」と中村先生が内心でお思いになったかどうかはわからない。ただ、もしそうだとしても、すべてはもう手遅れだった。
  乗船手続きを終え、車をフェリーに積むと、すぐさま展望のきく甲板へと上がった。昔の就航船は百トン前後の大きさしかなかったので、ちょっと波風があったりするとひどく揺れて船に酔う人が続出した。悪天候の時などは、猛烈なローリングやピッチングのため、客室で寝ていても床が前後左右に傾斜を繰り返し、周辺の手荷物もちろん、自分の身体までもが転がり動くありさまで、激浪に洗われる甲板になどとても立てるものではなかった。
  それに較べると、現在のフェリーは数百トンもあり、ほとんど揺れは感じられないし、船足も格段に速い。亜熱帯系の植物ビロウ樹が自生することで知られる沖の島、通称ビロウ島と本土の羽島崎との間を抜けたフェリーはほどなく外海に出た。断崖で囲まれたビロウ島を振り返ると、ビロウ樹とおぼしき樹影がいまもなおあちこちに見えている。
  いつの時代のことかはわからないが、遠い南の国から海流に乗って流れついたビロウ樹の種子は、いったいどうやってあの絶壁をよじのぼり根づいたのだろう、そして、どのくらいの時間をかけて急傾斜の島全体に広がっていったのだろう、まさか、大昔のビロウ樹には足が生えていたわけではあるまいし――などと、妙な想像を働かせているうちに船はどんどん沖へと進み、それとともに本土の影がぐんぐんと遠ざかっていった。
  再び一緒になった中村先生と甲板のベンチに並んで、写真を撮ったり談笑したりしていたが、しばらくすると、先生は、せっかくの親子水入らずの旅だから二人だけのほうがよいだろうと言い残し、客室へと戻っていかれた。二人だけになると、私は息子に周辺の地形や海流の動き、甑島の土地柄などを話し聞かせながら、じっと海面を見つめ続けた。
  海の色が、緑を帯びた青から深い青、紺、濃紺、そしてついには艶やかな光沢のある黒色へと変わった。対馬海流に洗われる甑島が近づいてきた証拠である。日本海流の分流である対馬海流は、フィリピイン沖を基点とする暖流で、塩分濃度が高いから水深が一定以上あるところだと黒く見える。太平洋側を流れる日本海流本流が黒潮と呼ばれるのも、文字通りその色が黒いからなのだ。ただ、黒く見えても、実際の透明度がきわめて高い。
  そろそろかと思いつつ前方に目を転じると、見おぼえのある大小の島影が視界の中に飛び込んできた。室生犀星流の表現を借りれば、「たとえ異郷の地で乞食となろうとも、帰るべきでところではないはずの故郷」に二十数年ぶりで私は帰ってきたのである。ほんとうにこれでよかったのだろうかという思いが一瞬脳裏をよぎったが、だからと言って、いまさら引き返そうと思いなおしてみたところで船が止まってくれるわけでもない。どんな展開が待ち受けていようとも、もはや私は成り行きに身を任せるしかないと決意せざるを得なかった。



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