「マセマティック放浪記」 1998年10月12日
Mathematics Odyssey October 12, 1998
八手の葉の意外な実像は? 

  この夏、仕事で上野に出向く機会があった。予定よりすこし早目に着いたので上野公園をぶらついていると、園内の片隅に八つ手の樹が生えているのに気がついた。なにげなく近づいて子葉の数をかぞえてみると、なんと九枚もあるではないか。
  まさかそんな?……と思いながらべつの葉を調べてみるとやはり九枚の子葉がある。なお我が目を疑いながら手当たり次第に子葉の数をチェックしてみると、意外なこ とが判明してきた。ほとんどの葉は子葉が七枚か九枚で、それらの葉のなかに、成長途中のものらしい三枚あるいは五枚の子葉をもつものが一定割合で混じっている。驚いたことに八枚の子葉をもつ八つ手の葉など一枚も見当たらないのだ。
  どうやら、八つ手の葉は、はじめ先端が三つに分かれたあと、外側の両子葉がそれぞれ二枚ずつに分かれて計五枚の子葉をもつ葉となり、さらにまた左右両端の子葉が二枚ずつに分かれて七枚の子葉をもつものへと成長するらしい。そして最後に七枚の子葉の両端がそれぞれ二分化し、九枚の子葉をもつ完全な「八つ手の葉」となるようなのだ。これでは「看板に偽りあり」もいいところで、八つ手の団扇がトレードマークの天狗様も真っ青の事態である。いや、案外、天狗様のほうはとっくにその事実をご存じで、よけいなことを騒ぎ立ててくれるなと、苦虫を噛み潰したような顔をしておられるのかもしれない。
  七と九の平均値は八だから、この植物を「七手」でも「九手」でもなく「八つ手」と呼ぶようになったのは、便宜上やむをえないことかもしれない。我が国では古来「八」という数字が全方位を表す縁起のよい数だとされてきたことなども、そんな呼称が定着した理由の一つではあるのだろう。だが、「八つ手」という呼称がその植物の実像に正しく迫るための観察眼を曇らせ、観念上の虚像を本物の像だと錯覚させてしまうとなると、話は笑いごとではすまなくなってくる。
  実を言うと、もともと理論とはこの「八つ手」という呼称のようなものである。ある一群の事柄の全体像を平均的にはよく表しているが、個々の事柄には必ずしもよく当てはまらない。換言すれば、理論というものは、個々の事柄のもつ極端に偏った特性を捨て、事柄全体にほどほどに当てはまる一般的な特徴や性質を「法則」としてまとめあげたものにほかならない。このようにして導かれた大小様々な理論は、相互に結びつき多重に積み重ねられてさらに大きな理論を構成していくことになる。したがって、理論が肥大化していくにつれて、見かけ上はどんなに立派でも現実とはどんどんかけ離れたものになっていくことが多い。そして、このような理論が盲信的あるは意図的に社会政策や生産活動に適用されるとき、目に見えない形で大きな不利益を被るのは我々一般市民なのである。
  肥大化した理論に疑問を抱いたとき、その欺瞞を見抜く唯一の手段は、自らの目を信じて理論の原点へと立ち戻ることである。七枚か九の子葉をもつものしかない「八つ手」の実像を見すえて、その呼称の表と裏それぞれのもつ意味を深く考えてみることである。この一連のコラムでは、いろいろな角度から折々そんなことなども取り上げてみたい。



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