科学・教育雑想コーナー 連載第7回/2003年8月27日
検事を目指すのはいいけれど 
 最近ある有名高校三年生の男子生徒と話す機会がありました。来春には大学受験を迎える彼の進学志望校は某有名大学の法学部なのだそうです。しかも彼はその大学の法学部に進学したら司法試験を目指し、将来は検事になりたいということなのです。大学入試模試などによる現在の彼の学力判定結果も見せてもらいましたが、そのデータから考えるかぎり来春の現役合格はまず間違いないでしょう。伝え聞くところによれば、そのご両親をはじめとし、周囲の人々が彼の将来に期待するところはけっして少なくないようです。
 近年は自分の将来について明確なヴィジョンをもつ高校生がずいぶんと少なくなってきていますから、その点でも興味深く思った私はその高校生に率直に尋ねてみました。
 「君はどうして将来検事になりたいと思ったんだろう?」
 すると彼はなんの迷いもなく、目を輝かせながら即座にこう答えました。
 「僕が検事になりたいのは、いまひどく乱れているこの世の中を正したいからです。検事になって悪い人をどしどし摘発し、少しでも早く犯罪を減らし社会をもっと住みやすくしたいのです」
 正義感と確たる決意のほどは高く買いたいところなのですが、その反面でいささか短絡的とも思われる彼の答えを聞いた私は、正直なところ、しばし考え込んでしまいました。純粋培養の教育環境の結果とも言えるこの種の正義感は下手をすると傲慢な権力意識へと結びついていきかねませんし、そうでなくてもちょっとした障害や挫折がきっかけで逆方向へと反転しかねない危うさを孕んでいることが少なくないと感じたからです。次に吐くべき言葉を模索しながら一瞬沈黙に沈む私の顔を彼は不思議そうに見つめていました。至極当然な自分の答えになにか不満でもあるのだろうかと逆に問いかけたげな表情にも見えました。
 「君の言う悪い人とは具体的にはどんな人のことなんだろう?」
 そんなこちらの問いかけに怪訝そうな様子で彼は答えました。
 「悪い人は悪い人です。法律に違反して犯罪行為に手をそめるような人です」
 「うーん、こんなこと言うのもなんなんだけど、ちょっと単純すぎないかなあ。人間の行為ってそんなに簡単に白黒つけられるようなものじゃないんじゃない? ……それに一口に犯罪といってもいろいろな場合があるからねえ」
 「そのために法律というものがあるのではないでしょうか。法律に従って厳格に判断すればいいと思います。そのためにも検事の仕事に就きたいと思っているんです」
 相手の言葉に耳を傾けながら一呼吸おいた私は、若い頃の想い出などを交えながら、わざと意地の悪い問いかけをしてみました。
 「君の気持ちはわかるんだけどね、そもそも法律ってそんなに立派なものなんだろうか。それとね、ちょっとこれは訊いておきたいんだけど、君の周りには法律違反をした人は誰もいないのかな? ……僕なんか、やむをえない事情などもあって過去何度か交通違反をやって捕まってしまったこともあるし、貧乏学生だった頃、ついつい電車でキセル……そう、一種の無賃乗車のことなんだけどね……そのキセルなんかをやっちゃったこともあったなあ。もちろん自慢できるような話じゃないし、それが本来正しいことだなんては思ってもいないんだけどね。いずれにしろ、君の論法でいけば、僕なんかも相当悪い人間ということになる。でも、そもそも、検事などの職務に就いている人とか、法律をつくる役人や政治家なんてそんなに立派な人物なんだろうか?」
 「……」
 相手はこちらの真意のほどを測りかねたように沈黙してしまいました。そこでこんどは、もう少し違った角度から質問をぶつけてみることにしました。
 「君さあ、法廷にはなんで判事、検事、弁護士の三者がいるんだと思う?」
 「検事は犯罪を告発し、弁護士は犯罪人の弁明をし、判事は両方の言い分を聞いたうえで有罪無罪の判定を下すためですよね」
 「そりゃそうなんだけど、なんでまたそんな面倒くさいことをするわけ? ……判事だけでもよくはないかなあ。あるいは、君のなりたいと思っている検事だけでもいいんじゃない? ……弁護士なんかいらなくなってしまうよね」
 「はあ……それは……」
 「君は弁護士にはまったく関心がないわけ?」
 「弁護士はお金儲けはできるそうですけど、犯罪を摘発して世の中をよくする側ではないと思いますから」
 「でもねえ、この世には立派な弁護士さんもたくさんいて、不当に社会的な不利益を受けて困っている人や冤罪で苦しんでいる人たちをずいぶんと助けてるよね。弁護士が主役のテレビドラマなんかを君も見たことあるだろう?」
 「……」
 彼はまた押し黙ってしまいました。
 「人間ってまったく判断ミスをおかさないほどに完全な存在じゃないよね。犯罪だってその一つひとつにはそれぞれの事情や背景がいろいろと隠されているわけだろう。どんな小さな犯罪でも、告発する者にも弁明や弁護をする者にも、そしてそれを最終的に裁く者にも、その一部始終が手に取るようにはっきりと見えるわけではないだろう?」
 「それはそうだと思いますけど……」
 「極端なことを言えば、殺人を犯した人間でも、あとになってみて自分がなぜそんな犯罪をやったのか説明がつかないことだってあるんだよ。判事、検事、弁護士の三者が法廷の場に必要な理由のひとつは、そもそもそれら三者を含めて人間というものが不完全なものだからだと思うんだけどね」
 「はあ……ではいったいどうすればよいのでしょうか?」
 彼は半ば不満そうな表情でそう問い返してきました。
 「それは君がこれから先に自分で考えるべきことだと思うんだけどね。ただ、僕が言いたいのはね、この世の出来事の大半、とくに人間の心に深く関わる問題のほとんどは即座に白黒をはっきりとつけられるほど単純明解なものではないということなんだよ」
 「いま一つよくわからないんですけど、そんなものなのでしょうか……」
 相手はなお納得いきかねるといった口調でそう呟きました。それに対し、そんなものだよと断言することに虚しさを覚えた私は、そこでもう一歩踏み込んで具体的に問題の核心を突いてみることにしました。
 「僕はね、なにも君に検事を目指すのをやめなさいと言っているわけじゃないんだよ。検事、弁護士、判事などのような法律家という職業はもちろん、法によって守られたり裁かれたりする人間という存在の不完全きわまりないありようのことをもっと深く考えて欲しいと思っているだけのことなんだよ。そのうえで検事になってもらうなら少しも構わないんだけど……」
 「それならそうすることにします」
 「えらく簡単に言うけれどねえ、君、職業上の嘘の問題……、そう、もっとわかりやすく言うと、職業上どうしても本心とは違うことを述べなければならないような事態について考えてみたことがあるかい?」
 「いいえ、そんなことあまり考えてみたことがありません。それってどういうことなんでしょう? ……どんな理由があるにしろ嘘をつくことはけっしてよいことではないと思うのですが……」
 そう答える彼の瞳の輝きは良く言えば純粋、悪く言えば幼稚そのものでした。そこで私はきわめて単純な例を一つだけあげてみることにしました。
 「あるお医者さんがいるとして、長くても余命一ヶ月だと診断した患者さんから『先生、私はまだ大丈夫でしょうか?』と訊ねられたとしてみるよね。その場合、『いや、駄目です。もう一ヶ月ともちません』などと答えられるだろうか……。絶対に例外がないとは言わないけれど、たいていはニコニコしながら『大丈夫ですよ』って答えるだろうね。こういうのを職業上の嘘っていうわけ・・…」
 「それはよくわかりますけど、それは医者の問題で検事や弁護士、判事などの仕事とはあまり関係ないと思うのですが?」
 「冗談じゃない、おおありなんだよ!」
 私が少しばかり語気を強めてそう言うと、彼は意外だというような表情を浮かべたのでした。ほんとうはそこから先のことを自分で考えてもらいたかったのですが、仕方がないのでさらに言葉をつづけました。
 「たとえば弁護士は、自分が弁護しなければならない被告が冷酷非道な犯罪を行ったことは間違いなく、そのため重刑を受けるのもやむをえないと確信しているような場合でも、法廷ではあらゆる手を尽してその被告に有利になるように弁護を行わなければならない。しかも、状況次第では無罪をも勝ち取るように努めなければならないんだよ。それが弁護士の職務なんだから、そうすることはやむをえないわけだよね……」
 「だから僕は弁護士じゃなくて検事志望なんです!」
 彼はここぞとばかりにそう応じると、ちょっとくらいは私が困った顔でもするのではないかと期待しながら、こちらの目をじっと凝視しました。そこで私のほうもいま一度彼に言葉を返しました。
 「検事だっておんなじなんだよ。ある被告を重罪で告発したのはいいけれど、裁判が進み犯罪の背景が見えてくるにつれて、被告の犯行には情状酌量の余地があるのではないかと感じるようになったり、事件によっては被告は実は無罪ではないかと思うようになったりすることがある。でも検事はその職務上、職業上の嘘をつきながら、告発通り被告に重刑を科すように最大の努力を払わなければならない。もしかしたら、その意味では検事などのほうが弁護士などに比べて良心の痛みがずっと大きいんではないかとも考えられるんだよ。もちろん、最終的に量刑を決める役割の判事だって背負うものはおんなじだよ。無期懲役刑や死刑を宣告したあとで、あれでよかったのだろうかと悩むことなどもあるんだろうね」
 そしてさらに言葉をついだ。
 「それからね、有力政治家の汚職のような事件を告発しようとすると権力筋から猛烈な圧力がかかったりすることがあるんだよ。それでなくても、権力者というものはあの手この手で自らの恥部を隠し、自分の立場を守るために見かけだけは思いやりのある立派な人間であるかのように振る舞ったりするわけだから、熱烈な支持者もずいぶんと多いんだ。そういう相手と必死に戦わなければならないのも検事の宿命なんだよ。状況的には明らかに汚職だとわかっていても告発できないで終わったり、孤独な戦いの末に圧力に負けたりすることだってあったりする。そんなときの無力感などは大変なものだろうと思うよ……」
 「……」
 一瞬言葉に窮した彼に向かって、私はとりあえず話を結ぶつもりでそっと言い添えました。
 「とにかく、学校の成績がよくって周囲からも将来が期待されてる君には、この際、ぜひとも人間というものの愚かさ、弱さ、不完全さといったものをよくよく考えてみてもらいたいなあ。そのうえで進路を決めてもらいたいという気がするんだよ、余計なことを言うようだけどね……。その結果、君の当初の志望通りに検事にでもなって社会に貢献してもらえるならそれは素晴らしいことだよね。この社会がある以上、誰かが検事のような仕事をやらなければならないわけだからね」
 私は敢えて「学校の成績がよくって……」という表現を用い、「ほんとうに優秀で……」という言い方を避けたのでしたが、たぶんその真意は彼には読み取れなかったのではないでしょうか。彼とはそのまま別れたきりですから、私のいささかお節介にすぎるとも思われる言葉を最終的にどう受けとめてくれたのかはわかりません。

 たぶん、彼は来春には志望通りの有名大学に進学し、そう苦労もなくいずれ司法試験に合格することになるかもしれません。もちろん、彼が検事になるまでにはいろいろな社会経験も積み、いくばくかの苦悩や挫折も味わうことになるでしょうから、現在のままの精神年齢でいつづけることはないでしょう。しかしながら、彼がいま高校三年生であることを思うと、受験技術や受験知識の高さに比べ、ものの見方があまりにも偏狭で単純なことに愕然とせざるをえないのです。現代の高校生全体からすると彼のような純粋培養タイプの生徒はごく少数の特別な存在であるような気もします。しかしながら、有名大学合格者のかなりの割合を占めるのがこのようなタイプの学生であるのもまた見逃せない事実なのです。
 私には、その精神的な幼さの原因が家庭や学校をはじめとする現在の社会的な教育環境のなかにあるように思われてなりません。中学や高校には優秀な先生方がけっして少なくはないはずですから、いま述べたような問題について何かの機会に少しずつ生徒に語りかけたり問いかけたりすることは可能だと思うのです。倫理教育だの道徳教育だのと大袈裟に構えたりしなくても、大人がその気になって真剣に考えさえすれば、ごく自然な生徒との対応のなかで彼らの精神的な成長を促すことはできるはずだと思うのです。欧米先進国の初等中等教育などではごく普通に行われていることでもあるわけなのですから……。
 もっとも、有名大学に生徒を多数合格させることによって名声を高め、それによって学校経営基盤の強化をはかろうとする学校ばかりが増える日本の現状においては、黒白どちらかでは解答不可能な生きた問題をテーマに教育を行うなど望むべくもないことなのでしょう。能力もあり見識もある先生方であっても、そのような教育を実践したりしたら、学校経営者や生徒の父母たちからの「そんなことではとても大学入試に合格なんかできない」という批判にさらされることになるでしょうし、それよりもまえに、肝心の生徒たちから総スカンを食らってしまうことになるかもしれません。小学校入学以来、黒白択一型の教育一色に染められ柔軟な思考のできなくなった彼らには、そんな問題を考えさせられること自体が異常な体験に思われてならないだろうからなのです。
 いっぽうどこの大学も最近の学生は本質的な学力や思考力がなくなったと嘆いているようなのですが、もとはと言えば各大学が、手間暇のいちばんかからないことを理由に、相も変わらず断片的な知識の量のみを試す黒白択一型の入学試験をやっているからでしょう。最も責任があるのはいろいろと問題点の指摘されている現状の入試のありかたを根本的に改革できないでいる大学そのものなのではないでしょうか。もちろん、そのためには現状改革に伴う労を誰かが先んじて引き受けなければならないわけですが、この国の将来を真摯に思うなら、まず大学そのものが従来までの入学試験のありかたを大きく変革する決意をもつようにしなければならないのかもしれません。
                                   (ほんだ・しげちか)


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