科学・教育雑想コーナー 連載第5回/2003年7月30日
金型の話 
 みなさんは金型というものをご存知でしょうか。テレビや新聞などのマスコミで、「日本の優れた工業生産を根底で支えているのは金型技術である」とか、「東京の大田区一帯は金型技術のメッカとして全世界に知られており、その金型技術なくしては国際的な宇宙開発プロジェクトの遂行は難しい」などとか報じられることはありますが、具体的に金型技術がどういうものであるかをご存知の方は少ないでしょう。
 精密工業の世界などで優れた製品を生み出すには、製品製造のもととなる極高精度の鋳型のような各種の成型用基本型枠が不可欠です。また、精度の高い工作機械、すなわち、「各種機械類の製造という、よりベーシックな仕事をする機械」を作るためには、それに先立って超々高精度の特殊な精密工具類が存在していなければなりません。金型技術という言葉も近年ではずいぶんと広い意味を持つようになってきているのですが、通常はいま述べたような高精度の成型用基本型枠や超高精度の特殊精密工具類、並びにそれら特殊なツール類を生み出す技術全般をさすものと考えてもらってよいでしょう。
 幾何学の世界などにたとえれば、金型とは直線や角度の定義、さらにはそれらをもとにした基本公理みたいなもの、また、金型技術とは必要に応じてそれらの基本定義や基本公理を生み出す数学者の思考能力みたいなものだと言い表わすことができるかもしれません。その場合、精密工業製品に相当するのは、各種の応用定理やそれらの定理を用いた問題の証明とか解答の類ということになるのでしょう。より一般的な見方をするならば、金型技術というものは数学の世界における基礎論理学の分野に相当すると考えてよいのではないでしょうか。
 数学の世界において基本定義や基礎公理などのような根元的問題を研究するのは、基礎論理学と呼ばれるとても地味な研究領域の専門家たちです。フレーゲ、カントール、ホワイトヘッド、ラッセル、ヴィットゲンシュタイン、ゲーデルといった数学界の巨人たちはみなこのこの研究領域のスペシャリストだったわけですが、一見あたりまえとも思われる根元的な問題をどこまでも深く掘り下げていかなければならないために、この分野で一定以上の業績をあげようと思ったらどうしても特殊な能力が必要となってきます。私などもちょっとだけは基礎論理学の研究に携わったことがあるのですが、自分の能力のなさを痛感し、その世界の巨人たちの凄さにただただ圧倒されるだけで終わってしまったような有様でした。
 工業の世界における金型技術の分野が数学界の基礎論理学の領域に相当しているとすれば、その技術に関わる技術者もまた、優れた仕事をしていくために特異な能力を要求されるのは当然のことでしょう。実際、真に優れた金型技術者のほとんどは超人的な特殊能力をそなえもっているようなのです。この際ですから、金型技術職人にまつわるちょっとした体験談を紹介してみることにしましょう。
 私の知人に前川祐三さんという人がいるのですが、かつてこの方は有名な時計メーカー・シチズン社の中央研究所長などを務めておられたことがあります。もうずいぶん以前のことなのですが、この前川さんの紹介でシチズン社の田無工場を見学させてもらったことがありました。芸大大学院美術教育研究科の学生20名ほどを引率して田無工場をあちこちと見てまわったのですが、たいへん有意義な見学会だったことをいまもはっきりと憶えています。
 当時シチズン田無工場には「ボッチ作業」をこなす300人ほどの特殊技術集団が存在していました。このボッチ作業なるものを実地に見学し、その技術者の方々から直接に作業にまつわる苦労話を聞けたことはまたとない収穫でもありました。「ボッチ作業」とは「ひとりぼっちでやる作業」、すなわち、特異な能力をもつその人ひとりだけにしかできない特殊作業のことを意味しています。しがって、そのボッチ作業集団は、国内にはその人だけしかいないというような特殊技能保有者たちで構成されていたというわけなのです。そして、それらボッチ作業者たちがそれぞれに行なっていた仕事こそ、ほかならぬ特殊金型の作成と金型技術の開発そのものだったのです。
 ある技術者は硬質の金属を素材にして極めて平らな、数学的に言えば曲率ゼロにかぎりなく近い平面を作り出す仕事に従事していました。基準となる理想平面がなければ、平面を作り出す工作機械や歪みのない平面を必要とする工業製品の生産は不可能だからです。この技術者は、一見ムラなく磨き上がったようにみえる平面を自分の指先で触り、指先から伝わる微妙な感覚によってその平面が完全な平面に仕上がっているかどうかを判断するのだとのことでした。もちろん不完全だと感じたら様々な方法を用いて完全だと思うまでその部分を修正していくわけです。コンピュータ制御による電気的あるいは光学的な現代の測定技術をもってしてもその技術者の特殊能力には及ばない、というのが解説役の前川さんの話でした。
 べつの技術者は大小様々な完全球形のボールベアリング作りに取り組んでいるところでした。もちろん、高精度のボールベアリングを生産するためには原型となる金型が必要なわけで、この技術者はその金型作りに従事しているところだったのです。この技術者もまた他人には真似できない方法でボールベアリングを磨いていたのですが、完全な球形に仕上がったかどうかの最終的な判断は自分の指先から伝わる感覚に頼っているとのことでした。やはり、現代の最先端測定技術をもってしても指先の判断にははるかに及ばないとのことでした。
 さらにまたある技術者は、超硬質金属製の針の先端をできるだけ鋭く磨き尖らす作業をやっていました。ミクロ単位以上の精度を要する精密なカーヴィングやカッティングには、先端部がムラのない曲面で構成され、しかも最先端がこのうえなく鋭く尖った針が欠かせないのだそうで、この技術者はそのための針を作成していたのです。面白いことに、この人物は両耳にレシーバーを当て微妙な研削音を聴きながら研磨作業を続けていました。なんと、研磨音によって仕上がりの状態や仕上がり度合いの判断がつくというのです。いくらかは指先の感覚に頼ることもあるらしいのですが、それは補助的なもので、あくまでも耳から聴く研磨音が主たる判断基準であるとのことでした。
 シチズンではコンピュータ制御による精密研磨装置を用いて同じ針の研磨作業を行ない、研ぎ上がった針とこの技術者が研ぎ上げた針との精度比較をしてみたのだそうですが、桁違いに後者のほうが精度が高く、どう工夫しどう改良を加えてみても研磨装置の研ぎ上げる針はそのボッチ技術者の針の仕上がりに及ばなかったそうなのです。実際に二つの針の顕微鏡拡大写真や関連データを見せてもらいましたが、素人目にも両者に雲泥の差があるのは明らかでした。もちろん誰にもそのような芸当ができるというわけではないのですが、ともかくも人間の能力恐るべしと感じたような次第でした。
 私が最も感嘆したのは、小型精密機器の生産ラインに関わる特殊な工程のメカニズムを考案する特別チームの神業とも言うべき仕事振りでした。時計などの精密機器はそれぞれがきわめて微細で複雑な形をした数々の小部品からなっています。しかも、それぞれの部品は製品の改良やモデルチェンジが行なわれたり、新製品の開発が行なわれたりするごとにどんどん形状や機能を変えていきます。実際の精密機器組み立てラインでは、それらの多種多様な小部品を同じ部品ごとに別々にプールしておき、各部品のプール・ポイントから、一定速度で動く特殊なラインベルトで次々と自動的に部品をすくいだし、整然と並べ替え、各パーツの集まる組み立て工程部へと運んでいきます。すべてのプロセスは自動的に処理され、人手が加わることはまったくありません。
 各部品の箱状プール・ポイントには複雑な形をした微小な同一部品が無数にストックされているのですが、それらは向きも裏表もまちまちのままゴチャゴチャの状態で容器に入っているのです。しかも複数の部品が互いに縺(もつ)れ合ったりもしています。部品を補給する場合も、まるで笊(ざる)かなにかで土砂を注ぎ込むみたいにプール・ポイントの箱の中に微小パーツを流し込むだけなのです。
 ところがラインが動き出すと信じられないことが起こるのです。特殊な構造のラインベルトでプール・ポイントからすくいあげられた複雑な形の微小部品は、ベルトに乗って一定の距離を進むうちに徐々に相互の縺れが解かれ、一定の間隔に並べ変えられ、いっぽうでその中の一部のものは弾き落とされてもとのプールに戻されます。残った部品はさらにラインベルトに乗って動いていくわけなのですが、その過程で自動的に上下左右や表裏の向きが整えられ、最後にはすべての部品が同一の向きと様態に見事に整列させられてしまうのです。まるで魔術を見せられているような感じで、あまりの絶妙さに私などはただもう唖然としてしまうばかりでした。
 この特殊技術開発担当チームのメンバーにあとで詳しく話を伺ったのですが、その内容もまた大変に興味深いものでした。この技術を修得するにはまず天性の特別な勘と並外れた器用さが必要で、経験を積みさえすれば誰にでもできるというものではないというのです。もちろん、生来の異能に加えて膨大な経験も積まなければならないとあって、後継者の育成はきわめて難しいとのことなのです。図面やデータ資料にして残し伝えるのがほとんど不可能な技術なので、才能のある若手人材に以心伝心で直接技術を伝授するしかない、また伝授されるほうも阿吽(あうん)の呼吸で技術を修得し継承するしかないそうなのです。そのかわり、いったんその特殊技能を身につけてしまえばなんにでも応用が利くから仕事に困ることはないとのことでした。
 チームリーダーの話では、どんな複雑な形状の新部品の場合でも一週間ほどの猶予があればその部品専用の整序システムを開発し生産ラインに組み込むことができるとのことでした。また、チームのメンバーは異口同音に、この特殊技術の世界において重要なのはどうやればその問題が解決できるかを知ることではなく、どうやった場合にその問題解決に失敗するかを知ることなのだとも説明してくれました。この技術部門には膨大な量の失敗事例データが蓄積されており、実を言うとそれこそが最大の極秘ノウハウなのだということでした。要するに、新たな課題を短期間で処理するには、そうやれば失敗するという方法を避け、一種の消去法によって懸案の解決に至るのがベストだということなのです。陰画から陽画を浮かび上がらせるにも似たその名人芸には、見学者一同ひたすら舌を巻き感嘆するばかりでした。
 現代の精密工業というと、コンピュータ技術をはじめとする最新科学技術によってすべてが管理制御され、最早人間の手の必要なところなど残されていないかのように思われがちなのですが、実際にはけっしてそうではないのです。現代の先端科学のすべての分野においてもそのあたりの事情はほとんど同じだと言ってよいでしょう。この世には人間の力ではどうにもならないこともたくさんあるのですが、逆にまた人間にしかできないこともまだまだ無数に存在しているのです。そしてそのような事実があるかぎり、一人ひとりはたとえ小さな存在でも、私たち人間は明日に向かって生き続けることがなお許されるはずなのです。
                                   (ほんだ・しげちか)


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