科学・教育雑想コーナー 連載第4回/2003年7月16日
絵画教室にみる初等教育の問題 
 私が長年懇意にしている若狭大飯町在住の渡辺淳さんは著名な画家で、同郷の作家、水上勉先生の信頼厚く、数々の水上文学作品の挿画や挿絵を担当されたことでも知られています。この渡辺淳さんから、あるとき面白い話を聞いたことがあります。
 子どもが大好きな渡辺さんは、地元の人々の要請もあって幼児や小学生を対象にした絵画教室を開いておられます。絵画教室は三箇所あって、一つは渡辺さんが住んでおられる大飯町の谷奥の川上集落に、もう一つは大飯町の中心地本郷に近い若州一滴文庫に、残りの一つは良港に恵まれ古来日本海沿岸交易の中心地点として発展してきた小浜市におかれています。ちなみに述べておきますと、川上の教室に通ってくるのは豊かな自然と素朴な人情の残る田舎で育った子どもたち、一滴文庫の教室に通ってくるのは大飯町でもかなり近代化した本郷地区の子どもたち、そして小浜の教室に通ってくるのは最も都会化した小浜市街に住む子どもたちです。
 渡辺さんの話によると、どういうわけか、おなじものをテーマにして描かせても、それら三つの絵画教室の子どもたちの描く絵には大きな違いがあるというのです。三つの絵画教室において渡辺さんは極力おなじ指導をするように心がけているのですが、それでも描き上がる子どもたちの絵には明らかに違いが生じてくるというのです。
 私も何度か絵画教室の様子を見学させてもらったことがあるのですが、渡辺さんの指導にはいささかも押しつけがましいところが感じられません。指導という言葉そのものがふさわしくないと思われるくらいなのです。絵画教室においては、二、三歳の幼児も小学校高学年の児童も、あらかじめ用意された画題をもとにして思いおもいの絵を描き上げるわけですが、渡辺さんは子どもたちからとくに相談があったりしないかぎりは細かく口を挟んだりはしませんし、ましてや自ら絵筆をとって手直しをしたりするようなことはありません。
 花瓶に差されたお花だったり、仏像だったり、近くの寺のお堂だったり、牛馬や鳥などの動物だったり、渡辺さん自身だったりと、毎回のテーマはいろいろなのですが、時間をかけ納得のゆくまで子どもたちに描く対象を観察させ、そのうえでそれを自由に描かせています。子どもたちが伸びのびと描いた作品のよいところを探し出しそこをおおいに褒めたりはしますが、技法の未熟なところや観察の不十分なところがあってもそれをあれこれ指摘して修正させるようなことはありません。どうしてもアドバイスが必要だと感じた場合には、さりげなく子どもたちに語りかけてその時々の描画テーマの特徴について話し合ってみたり、自分で筆をとって実際に描いてみせたりするだけです。じっくりと時間をかける中で自然に子どもたちが鋭い観察力を身につけ、自らの力で無理なく描画に習熟できるようにするというのが渡辺さんの基本的な考え方のようなのです。
 ところで、そんな渡辺さんが、子どもたちの描く絵の傾向が三つの教室で明らかに異なると感じておられるからには、その背後になんらかの理由や事情が隠されていると考えるのが自然でしょう。渡辺さんから耳にしたところでは、谷奥にある川上集落の子どもたちの描く絵のほうが他地域の子どもたちの絵よりも自由奔放で生きいきとしており、強い個性と観察力の鋭さが感じられるというのです。また、伸びのびとしていて全体に画一性がないぶん、作品としてもずっと優れているとのことでもあるのです。
 それが一滴文庫の教室に通う子どもたちの絵になると、おなじ対象を描いても自在さがかなり失われてしまい、どこかに画一的な雰囲気が漂いはじめるらしいのです。そして、小浜の子どもたちの絵になると、奔放さや観察力の鋭さがほとんど感じられなくなり、画一性が色濃く浮き上がってくるというのです。私も実際にそれぞれの絵画教室に通う子どもたちの絵を見せてもらいなるほどと思ったような次第でした。素人目にもその違いは明らかだったからなのです。なぜそんなことになってしまうのでしょうか。絶対にそうだと断定できるわけではありませんが、そのようなことが起こる事情はある程度説明がつくような気がします。
 話をわかりやすくするため、いまかりに子どもたちが鉢植えのチューリップの花を描くようにと言われたとしてみましょう。その場合、かねがね自然との触れ合いの多い川上集落の子どもたちは、チューリップの花弁一枚いちまいの微妙な色の違いやそれらの並びかた、花額のつき具合、葉っぱや茎の形状、それらの伸びかた、鉢の中の土の色や粒子の大きさ、植木鉢の色と形、さらには背景の窓や壁の有様などを細かく観察し、そのことを通して得られたイメージや印象をもとに絵を描くことになります。具体的な観察を通してそれぞれの子どもが受けるイメージや印象はまちまちですから、必然的にそれぞれの絵はダイナミックで個性的なものになり、きわめて写実的なものあれば、印象画風のものあり、なかにはどう見てもチューリップには思えないシュールリアリズム風の絵まで登場したりすることになります。
 そのいっぽう、かなり都会化した小浜地区で育った子どもたちは、例外はあるにしても、一般的には自然と触れ合う機会が川上地区の子どもたちと比べずっとすくないために、自然観察眼や自然界への対応能力はより劣っていると想像されます。ただ、小浜地区の子どもたちは、絵本や図鑑、雑誌、さらにはテレビその他の映像類を通してチューリップの画像に接する機会が川上地区の子どもたちより多いと思われますから、現実のチューリップがどんな様相をしているかに関わりなく、チューリップとはこういうものであるという知識概念を無意識のうちに形成するようになるわけです。周囲の大人たちもチューリップとはこういうものであるという概念だけを急いで子どもたちに教え込もうとしますから、よけいにその傾向は強まります。そうだとすれば、意識するとしないとに関わりなく、そういった子どもたちが描くチューリップの絵というものは、見かけだけは綺麗で形が整っていても、「チューリップとはこういったものですよ」とばかりに共通概念の押し売りでもするかのような、典型的で画一性の強いしろものになってしまいます。
 もちろんその場合、一滴文庫の絵画教室の子どもたちが描くチューリップの絵は、それら二つの中間にあたる特性をもつことになるわけです。新緑の季節などには、山々が明暗や濃淡の微妙に異なる様々な色合いの緑によって美しく彩られるものですが、都会育ちの人の中にはおなじ緑にしか見えない者がいたりするというのも、同様の背景があるからだと考えてよいでしょう。
 言うまでもないことですが、都会的環境の中で育った人には田舎育ちの人にない優れた点も多々あるわけですから、子どもは皆自然環境に恵まれたところで育ったほうがよいなどという短絡的な見解を述べるつもりなどはありません。ただ、それでも、幼少期や初等期の生活環境によって子どもたちの絵画表現にこれだけの違いが生じるということは興味深い事実であり、初期の美術教育に話をかぎるなら、自然の豊かな地方で伸びのびと育ちながら絵画を学ぶに越したことはないということになるでしょう。
 渡辺さんの絵画教室にからむこの話はただそれだけのことのように思われるかもしれません。しかしながら、それは、実際のところ、初等中等教育全般、ひいては諸々の学問研究、文学、芸術といったような世界にまで深く関わる問題でもあるのです。
 あくまでも私の知るかぎりにおいてのことですが、自然科学の分野において独創的な仕事をしている研究者には、幼少期から少年期にかけて豊かな自然環境の中で育ち、ゆっくりとした時間の流れの中で、自然を観察する能力や自然界の驚異に触れるのに不可欠な感性を培った人が多いように思われます。文学や芸術などにおいても、自然界を対象とした表現ということに話を絞ると同様のことが言えるのではないでしょうか。
 昨今の初等中等教育などにおいては観察力の育成や豊かな感受性の養成などが必要だと叫ばれるようになってきていますが、現実には観察力の育成ひとつをとってもけっして容易なことではありません。都会の学校の野外授業や体験学習の時間には、動植物の生態や地層の観察などに生徒を連れていき、それについてのレポートを提出させるようなことがよくあるのですが、フィールドワークに参加した生徒たちは、あとで嫌々レポート作成に取り組むことになるというのが大抵の場合の実状です。そんなことになるのは、先に指導者側のほうに「そのフィールドワークのあとでこれこれの発見があったという内容のレポートを書いてほしい」という思惑があって、有無を言わさず生徒をその方向へと導いていこうとするからなのです。
 あらかじめ模範となるレポート内容が定められており、それになるべく近いレポートの提出を求められるわけですから生徒にとって面白いわけがありませんし、そんなうわべだけのフィールドワークで自然観察力を身につけさせることなどできるはずもありません。前述の絵画教室の話になぞらえれば、それは、チューリップとはこんなものでこう描くべきであるということを子どもたちに教え込み、そのような絵を描くことを暗に強要するようなものだからです。
 海岸に断層地形の観察に出かけた生徒が、たまたま磯辺の潮溜まりに棲息するイソギンチャクやヤドカリ、カニ、巻貝、そこに生える海草などの生態に強い関心を抱いたとしてみましょう。その生徒がそれらの生物の生態についてレポートを書きたくなったとしても、普通そんなことは許されないでしょう。また、観察対象の地層に珍しい植物や虫などが棲息していて、そのことにすくなからぬ興味をもったとしても、レポートにそんなことを書いたら本筋からはずれているという理由でまず高い評価は得られそうにありません。まして、断層のある海岸一帯の風景にこころから感動したなどという感想文を書いたり、その海岸周辺の景観をスケッチしたりして提出したら、それらがどんなに素晴らしいものであっても、理科の学習とは関係ないと無視されてしまうことは目に見えています。
 そもそも、自然観察力の育成は不可欠だと思っている教育者のうちのどのくらいが真の意味での自然観察能力をそなえもっているものなのでしょうか。たぶんその数はかなりかぎられてしまうことでしょう。自分で実際に自然を観察したこともなければ、自然観察の楽しさや喜びを味わったことがないにもかかわらず、教育者としての建前上、自然観察力の育成は必要だと思わされている、さもなければ必要だと思うふりをして行動している教師もすくなくはないはずなのです。それは、チューリップの絵とはこういうものであるという固定概念を先に植えつけられ、子どもたちが観察によって得たチューリップ像などに関係なく、無意識のうちに自己の概念に合致したチューリップの絵を描かせようとする絵画教室の指導者みたいなものなのです。
 もっとも、文化や文明の体系というものは長いながい人類の歴史を通して確立され蓄積されてきたものですから、その根幹にある概念や知識のほとんどは既成のものとして習得し受け入れていくしかありません。たかだか百年前後の短い時間しか生きることのできない私たちが、独力であらゆる事象を発見し、それらを体系化し、記憶するということなど、どう足掻いてもできるわけがないからです。
 したがって、幼少期や初等中等教育期に、確立された諸々の基礎概念や基礎知識を無条件で叩き込む教育というものも一面では欠かせません。たとえば、母国語や外国語などの言語教育、基礎計算力や論理思考力の養成に関わる教育、音楽教育、一部の数理科学の分野に見られる高度で特殊な概念の早期教育などをおこなうには、むしろ都会的な生活環境のほうが適しているのではないでしょうか。概念先行型教育には、人材や知識教育環境の整った都会のような場所のほうがふさわしいように思うのです。もちろん例外もけっして少なくありませんが、優れた音楽家、評論家、作家、詩人、論理学者、言語学者、数学者、理論物理学者、法律家、社会学系の研究者などに都会育ちの人が多いのはそのような背景があるからなのかもしれません。

 具体的な物事に十分時間をかけて接しながら概念をかたちづくっていくような初等教育のほうが望ましいのか、それとも既成の概念を先に十分教え込んでから、それをもとに具体的な物事に接していくような初等教育のほうがより望ましいのかという問題は、それぞれに一長一短のあることですから、その結論を得るのはけっして容易ではありません。実際には、どちらかに偏るのではなく、双方の利点をバランスよく採り入れた初等教育が理想的ではあるのでしょう。
 ただ、全国的に都会化現象の波及しつつある現在の日本社会においては、概念先行型教育が初等中等教育の主流を占め、観察や実体験優先の概念形成型教育がどんどん影を潜めていきつつあるような気がしてなりません。それが時代の流れだと言ってしまえばそれまでなのですが、私のような田舎育ちの人間にはその結果もたらされる負の影響がいささか危惧されてならないのです。現代の日本には、与えられた問題を解決する「問題解決型能力」をもつ人材は多いが、何が問題なのかを発見し提示する「問題発見型能力」をもつ人材が少ないと言われています。もしそれが事実だとすれば、そのことはいま述べたような状況と関係しているのではないかという気がします。「応用思考型能力」をもつ者は多いが「原理思考型能力」をもつ者が少ないと言われるのもたぶん同様の背景があるからなのでしょう。
 東シナ海に浮かぶ九州の離島で暮らしていた小学生時代、村の有線ラジオから流れる子ども向けのクイズ番組を聞きながら、自分と同じ小学生でも東京育ちの小学生たちは凄いなあと感心したことがありました。たとえばオリオン座の一等星の名前を質問されたある小学生などは、即座にリゲルとペテルギュースと答えたばかりでなく、そのスペクトル型や赤緯赤経についての知識まで披露してみせたからです。田舎育ちの小学生の私が知っていることと言えば、冬の夜の八時頃になると南の空にキラキラ光る綺麗な星座がのぼってきて、そのなかの二つはとくに明るく、一つは赤っぽく、もう一つは青っぽく輝いているというくらいのことでした。ただ、この星座が東の空から南の空にのぼるにつれて徐々に形が変わって見えることや、深夜あるいは早朝などなら冬でなくてもこの星座が見えるということは当時からよく知っていました。
 また、都会育ちの小学生のように地球から月までの距離や月の大きさ、満月時の光度、質量とかいったようなものについての知識はまるでありませんでしたが、その日空にかかっている月の形を見さえれば、満潮干潮のおおよその時刻や大潮の時期であるのか小潮の時期であるのかをすぐ知ることはできました。もちろん、それは離島での生活の中で自然に身につけた知恵だったわけですが……。いまでも月を眺めるのは大好きなのですが、いまだにそんなことをするのは、満月の夜などに伝馬船に乗って海に漕ぎ出し、月見をしながら月光に煌く美しい海面を眺めて育ったせいなのかもしれません。
 都会育ちの人に比べて知識的には遥かに劣っていたそんな私が、いまは宇宙や星に関する本を書いたりもしています。もちろん、高校や大学入試に必要な基礎知識が大いに欠落していたため、ずいぶんと苦労もしましたし遠回りもしました。あのような離島ではなく、もっと教育環境に恵まれた都会で育ったらよかったのにと思ったことも正直何度かありました。しかし、自らの力で育ちを変えることなどできませんから、そんな育ちの人間にできる仕事や生き方をなんとか探し出し、細々とながら現在に至っているというわけなのです。 
                                   (ほんだ・しげちか)


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