科学・教育雑想コーナー 連載第14回/2003年12月10日
入試担当者の知られざる苦労とは? 
 あまり公にはなっていませんが、入学試験を担当する大学の先生方にもそれなりの苦労はあるようです。現在の入試形態が存続しつづけるかぎり、なるべくなら入試の担当官にはなりたくないというのが、おそらく大学の先生方の本音なのではないでしょうか。自分の専門研究や学生の指導を長期にわたって中断し、入試問題作りとそれに続く採点処理業務に奔走させられるうえに、ミスがあったらあったで責められたりもします。たとえ苦心して真に優れた人材を選抜するにふさわしい良問をつくってみたとしても、各教科の総合点数に基づく合否判定が主流の現況下においては、特定教科の特定問題に完答できたからといってそれだけでその受験者が合格できるわけではありません。ですから、たとえ個々の問題がどんなに良問であったとしても、創造的能力や特殊才能の発見とそれらの持ち主の採用などに直接それを活かせる可能性はほとんどありません。これでは、出題者も苦労して本気で良問をつくる気になどなれないことでしょう。
 前述しましたように、記述式の良問の場合はそのぶん採点にも手間と時間がかかるうえに、その評価にも個々の採点官の主観がある程度は加わらざるをえません。そういった問題から生じるこまごまとした調整をふくめて、受験者数の多い大学の入試担当者は膨大な関連業務の処理に追いまくられることになってしまいます。おなじ大学の場合でも学部ごとに日程を変えて何度か選抜試験の行われる私立大学などにおいては、同一教科について何種類もの問題用紙をつくらなければなりませんから、よけいに大変なことになってきます。いきおい、私立大学などではマークシート方式の試験が主流とならざるをえないわけですが、そうなってくると、良問だろうが悪問だろうがもうどうでもよいというのが偽らざるところなのではないでしょうか。

 それならせめて国立大学くらいはまっとうに対応してほしいという意見がでてくるかもしれませんが、世間からとくに厳しい監視の目を向けられている国立大学の場合などは、現実には問題はより深刻であるといってよいかもしれません。近年の状況についてはよくわかりませんが、すこし以前までは入試の担当教官は想像以上に大変だったようなのです。
 たまたま入試の担当者に指名された教官は、その時点から私的なアルバイトなどは一切自粛し、自分の研究を中断ないしは二の次にして翌年の入試の対応に奔走せざるをえなくなってきます。そして、まず手はじめに、過去何年にもわたる各大学の入試問題や諸々の大学受験予備校の模試問題、受験業者の模擬テストの問題などを徹底的にチェックする仕事に取り組まなければなりません。そんな膨大でけっして面白くもない作業に労力を費やさねばならないのは、むろん、特定の受験者だけが有利になるような類似問題の出題を避け、すべての受験生に対して公平を期すためにほかなりません。うっかり類似問題でも出題してしまおうものなら、世間から批判の嵐にさらされることになりかねませんから、徒労に近いそんな作業にも慎重にならざるをえないわけなのです。
 それが終わると、同一教科の入試問題作成とその採点を受け持つ複数の専任教官はそれぞれに問題を多数作成して極秘に持ちより、全員でそれらをひとつひとつ細かく検討、さらに何度も何度も話し合いを繰り返したうえで問題を厳選し絞り込んでいきます。そして、過去に類似問題がないこと、細かなミスや不適切な点がないこと、高校の学習内容の範囲をこえていないことなどを再確認したうえで、最終的に出題する問題が決定されます。のちのち不慮の事態が生じるかもしれないことに備えて、本問題のほかにも何組かの予備問題も用意されるようなのです。
 出題用の問題が決まると印刷にうつるわけですが、学内に印刷所を持たない国立大学などの場合、比較的最近まで入試問題の印刷工程は容易なことではなかったようなのです。コンピュータ・ネットワークとプリント技術の飛躍的な進歩によって昨今の状況はずいぶんと違ってきているかもしれないのですが、かつては、主要な国立大学の入試問題の印刷は、問題漏れなどの不慮の事態を防ぐため、入試当日までは刑期のあけない模範囚などを使い各地の刑務所内の印刷所で行われていたからです。              
 当然、担当教官たちもかなりの長期間刑務所内に身をおいた状態で問題用紙作成の指導と印刷ミスの細かなチェックなどをしなければなりませんでした。事前に印刷用紙の枚数を正確にチェックし、印刷中あるいは印刷後に一枚でも用紙が行方不明になったりすると、すべての問題を新たに作りなおすほど厳格な作業が行われていたというのです。
 印刷された入試問題は担当教官たちの手で再三再四全枚数をチェックされ、紛失したものが一枚もないことが確認されたあと厳重に封印がほどこされていたようです。東京の有名国立大学などの入試問題は、印刷後ただちに大蔵省造幣局の金庫に移され、入試当日まで厳重に保管されたりしていました。もちろん、その間は入試問題を作成した担当教官といえどもその保管場所に近づくことは許されないわけです。
 そこまでの作業過程が終わると、次に担当教官たちは個々の問題ごとに考えられるかぎりの解法にのっとった模範解答を一問ごとに作成、それぞれの解答のタイプ別に細かな採点基準を設けていきます。数学の記述問題などの場合には様々な解法があるので、そのぶんよけいに大変なようであります。もちろん、受験生の中には担当教官も考えつかなかったようなエレガントな(シンプルで無駄がなく、しかも論理的に明快で鮮やかな)解答を提出する者もあり、それらにはケース・バイ・ケースの対応がとられているようです。純粋に数学的な立場から言えば、そのような能力は高く評価すべきなのでしょうが、むろん、エレガントな解答を提出したからといってその問題の配点以上の得点が与えられるわけではありません。
 従来と違って、近年はあちこちの大学で入学試験にさまざまな工夫がなされるようになってきていますが、総得点比較判定主義がなお主流の入試制度では、特定の数学の問題でどんなにエレガントな解法を編み出したとしても、それがその受験者にとって特別有利に働くことはありません。たとえ入試担当官が個人的にどんなにその異才を評価したとしても、それだけでその受験者を合格にしてやるわけにはいきません。それどころか、他の教科の試験結果が思わしくなくてその受験者が不合格になる可能性もすくなくないわけです。そのような状況が現実だとすれば、いくら良問をつくれと言われても、出題者が問題作成にかける熱意はおのずからそがれてしまうというものでしょう。
 人的作業にはどんなに注意を払ったつもりでもミスはつきものですから、当然の結果として、印刷された問題を封印し保管庫に収めたあとで出題者たちが問題ミスや印刷ミスなどに気づくこともあるようです。しかし、いったん金庫の中に保管されてしまったあとではそれらを修正するすべはありません。修正するにはそれまでの全作業工程をもう一度やり直さなければならないのですが、時間、労力、経費などの点からしてそんなことはほとんど不可能だからです。入試当日あるいはそのあとになって出題ミスを指摘され、各方面から入試担当者がその責任を追及されたりする事態がたまに起こったりもするようですが、問題をつくるサイドにもそれなりにやむをえない事情があることは考慮しておくべきでしょう。
 入試が終わると採点にうつるわけですが、主要国立大学の場合には、受験番号も受験者名も採点担当教官にはわからないような状態にして採点処理が行われるようです。むろん、そこまで厳格な対応がなされるのは、情実がらみの採点が行われるのを防ぐためにほかなりません。大学によっては受験年齢の子をもつ教官は入試担当からはずすというような配慮さえもなされているそうです。全受験生の答案のすべてを採点担当教官の全員が一問ごと交互に厳しくチェックし合い、正確に得点を集計します。有名国立大学の場合にはボーダーラインに同点者が百人以上も並ぶことがあったりしますから、得点集計には想像以上に慎重な対応がとられてもいるようです。
 理科や社会科などにおいては、あらかじめ難易度を調整したつもりでも、いざ蓋を開けてみると選択教科によって平均得点に大きな差が生じるということがすくなくありません。そんな場合には選択教科による極端な有利不利が生じないように、各教科間の得点調整をしなければなりません。ともかくもそのようなプロセスを経てようやく合格者が決定し、その年度の入試担当官たちはやっとのことでお役御免となるわけなのですが、結果的には一年のほとんどを棒にふることになってしまいかねないというわけです。
 入試問題の作成を有名予備校などに委託しようとか、過去の入試問題の再使用を認めるようにしようとか(もちろん、そっくりそのまま出題するというわけではありませんが)いった昨今の大学の入試がらみの動きには、そのようなやむにやまれぬ裏の事情もあるようなのです。なかなか厄介な問題なので安易に結論はだせませんが、入試制度が現状のままでありつづけるかぎり、問題作成を予備校の専門部門に委託するようなことがあってよいのではないかと私自身は考えています。むろん、慎重な入試データの管理と機密保持、そして、できるかぎり適切で合理的な問題作成を前提としたうえでの話ではありますけれども……。
 それでなくても理想的な入試制度や入試問題作成のありかたを模索するという作業は困難です。一般にはもっとも客観的だと考えられている従来型のペーパーテスト一辺倒の総合点判定法に偏すれば、試験問題作成に要する労力や採点処理の煩雑さもてつだって、単なる暗記力や要領の良さを調べるだけの粗雑な悪問や、精神的拷問に近い難問奇問が多くなります。優れた暗記力を有するということはけっして悪いことではないのですが、この方式が極端になりすぎますと、特定教科に異才をもつ者や真の創造力を秘めた思考タイプの者などは不合格になってしまう可能性が高いでしょう。そのような受験生の場合には、教科による得点のばらつきが大きかったり、一つのことに深くこだわり納得がいかないと次に進めないようなところがすくなからずあったりするからです。
 難問は避け、やさしい問題から解くのが入試合格のコツだと教えるのが日本の小・中・高の教育現場の常なのですが、小学校入学時から高校卒業時までの十二年間もそんなトレーニングに明け暮れていたりしたら、大学生になるころには、その解決に独創性や洞察力を必要とするようなチャレンジングな問題への対応能力が退化してしまいかねません。大脳生理学者やニューラルネットワーク・コンピュータを用いて脳の活性研究をしている学者たちのレポートなどによれば、人間は生来創造性をつかさどる脳細胞をもちそなえているが、成長の過程でその細胞部分を適度に使い活性化するようにしてやらないと、細胞の働きは退化し本来の機能を失ってしまうのだそうです。もしもその通りであるとすれば、これはゆゆしき事態だと言わざるをえないでしょう。
 いっぽう、おなじペーパーテストでも特定教科偏重評価型の試験にすれば、その教科に対する適性の判定が可能な良問作成にかける出題者の苦労は報われ、独創性のある学生を選抜することはできるでしょうが、そのかわり、英才教育主義だとかいったような強い批判の声が各方面から湧き起こることになるでしょう。広い意味での基礎学力や社会性に欠けるアンバランスな学生なども増えていきかねません。また、大学受験までに特定教科のみを大学生レベルまで先取り学習する者が現れ、それはそれで受験競争は激化し、入試問題の水準はこれまでとは違った意味で高度化していくことになるでしょう。
 この問題を解決するには、つまるところ、従来並みの複数教科総合点方式、特定専門教科の得点優先方式、面接による口頭試問や小論文による人物評価方式などを併用した多重方式の入試を行うしかないのでしょうが、それはそれで新たな問題や予想外の苦労を入試関係者にもたらすことになるに違いありません。ただ、従来型の入試方法が時代の状況と適合しなくなってきたいま、多少のマイナス要因はあっても現在の社会状況とその要請に即した入試方法の一大改革を行うことは絶対に必要なことなのではないでしょうか。
 
 かつてある知人から、「大学などの数学の研究者は皆、大学入試の数学の難問をすらすら解けるんでしょうか?」という質問をうけたことがあります。もちろん、数学のスペシャリストなのですから、しばしそれなりのトレーニングとウォーミングアップを行い、入試問題向きの勘を取り戻してからなら、一応解くことはできるでしょう。ですが、受験生と同じレベル、同じ範囲の知識だけを用いるという条件をつけ、時間制限を設けたうえで、なんの準備も心構えもなくいきなり入試の難問にチャレンジさせるとしたら、落第点をとる者が続出するかもしれません。常に入試の難問に取り組んでいる大手予備校講師や有名進学校の教師たちにはむろんのこと、成績優秀な予備校生や現役高校生たちにも及ばない可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。
 そもそも、数学者というものはよく計算を間違えたりします。計算力が優れているにこしたことはないのですけれども、大学などでスペシャリストたちが関わる数学研究の本来の対象は、日常言語を極度に抽象化した特殊な言語の数々で織り成し組み立てられた超常的な世界ですから、そこでは面倒このうえない四則計算や煩雑な関数値の計算が正確であるかどうかはあまり重要なことではありません。したがって、数学の研究者たちが、長いブランクの末に彼らの研究の世界とはまるで異質な入試の難問にいきなりチャレンジさせられたとしたら、些細な計算ミスを起こし、時間内には完答できない事態が大いに起こり得るわけです。
 それぞれに特別な事情はあるのかもしれませんが、先々を見通した学問的配慮からではなく、ただ単にその時々の受験生を困惑させるだけの難問、奇問、珍問を作成出題したことのある大学の先生方は、一度他人の作ったその種の問題に受験生と同じ条件でチャレンジし、それらがどんなに迷惑かつ無意味なことか、あるいはまた、教育界や一般社会にとってそれがどれほど負担になっているかを実感してもらいたいものです。もちろん、自分がつくった問題には教育上それなりの意味や意図があるというのであれば、戸惑っている多くの受験生のためにも、ぜひそれらの問題の出題背景を公にしていただきたいものだと思います。

 私が高校生だった頃、ある高名な文科系国立大学の国語の入学試験問題はむやみやたらに難しいことで有名でした。合格者でも百点満点中二、三十点もとれれば上出来という難度で、東大などの問題よりもはるかに難しかったようです。当時その大学には国語学専門の名物教授がいて、毎年その教授がその大学の国語の入試問題の作成に当たっていたらしいのです。周囲の批判にもめげず、自分の書いた文章を、「これは名文である云々」といったようなリード文つきで入試に用いたりしたこともあったといいますから、一筋縄ではいかない人物ではあったのでしょう。
 あまりに問題が難しく出題傾向も偏っているというので、全国高等学校校長会議かなにかが「問題をもっとやさしく無理のないものにしてほしい」という趣旨の嘆願書をその大学に提出しました。ところがその翌年の同大学の国語の入試に、「本文中に誤りがあるから指摘せよ」といったような設問つきでその嘆願書の一文が出題されてしまったのでした。そこまでやるのかと関係者たちが驚き呆れたという話を、当時の国語の教師から授業中に聞いたことをいまも懐かしく想い出します。
 けっして褒められた話ではありませんし、当時その教授が具体的にどのような反論をしたのかはいまとなっては知るよしもありませんが、もしかしたらそんな難問をつくりつづけたその教授には、その人なりの確たる信念があったのかもしれません。この教授の真似をするようにと奨励するつもりなど毛頭ありませんが、あえて難問奇問を出題するという先生がおありなら、すくなくともそれなりの理由を明らかにし、世間の批判がどうであろうと自己の信念を最後まで堂々と貫くだけの覚悟はもってほしいものだと思います。                                (ほんだ・しげちか)


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