科学・教育雑想コーナー 連載第12回/2003年11月11日
なんとも奇妙な確率談話 
 ある論理体系が根源的な意味で破綻をきたしているということと、人間にとって、その論理がある有限の時空内や一定の歴史的背景のなかでは有意義であるということとは、別々に分けて考えなければならない問題です。そうでなければ、人間活動のすべてが否定されてしまうことにもなりかねません。たとえば、有名なクルト・ゲーデルの「不完全性定理」は、完全無欠な論理体系というものが存在しないことを証明したものですが、その定理をそのまま鵜呑みにし意地悪く解釈すれば、この世のすべての論理には必ずなにかしらの根元的な矛盾が含まれているから、そんなものはみな無意味であるということになってしまいます。
 確率論ひとつをとってみましても、厳密に考えてみようとする場合には、主観的確率(数学的確率とも呼ばれています)と客観的確率(統計的確率とも呼ばれています)の区別といったような面倒な議論から始めなければなりません。実際それはその道の専門家にとってもなかなか厄介な問題なのです。いまにも倒れそうなボロ家をつぎはぎ細工でなんとか補修しながら当面の体裁を保っていくという作業がいつ果てるともなく続けられているのが確率の世界の現実でもあるのです。なんとか住むには住めるけれども、いつなんどき壁に穴が開くかもしれない、嵐のために突然屋根が吹き飛んでしまうかもわからない――でもまあ、さしあたっては雨露や冷たい風を凌ぐことはできるからその家が存在することはそれなりには有難い、とでもいったようなところだと考えてもらってよいでしょう。
 残念なことではあるのですが、「絶対に落ちない飛行機」を造ることはできません。ですから、万一のことがあるかもしれないから絶対に飛行機に乗らないと考えるか、安全率に賭け、めったなことでは墜落などしないだろうと信じて飛行機に乗るかは、時代の背景や人それぞれの人生観に基づく判断に委ねられることになるわけです。社会事象や自然界の事象に確率論を適用する場合は、一般には、どうしても過去の事象の様態に基づくデータから未来の事象の様態を予測するというプロセスを踏まざるを得ないのです。その場合、その確率的予測が意味を持つためには、「その予測のもとになった諸事象の様態が今後ともこれまで通りに展開するのであれば」という暗黙の前提が存在していなければならないわけで、その大前提が崩れた場合には、その確率的予測はほとんど意味を持たなくなってしまいます。むろん量子論や宇宙論などの場合には過去の確率的な予測をしたりすることもあり、最終的には過去も未来も超越する話になっていってしまったりもするわけなのですが、通常はそのようなきわめて特殊な状況下でのことまで考える必要はないでしょう。
 ともかくも、私たちは未来の状況がわからないから予測したいと考えるわけなのです。でも未来の予測が当たるためには、これまでとおなじように諸々の事態が展開していくことが前提となるというのです。しかし、そうだとすると、まるで予測の意味がなくなってしまいます。一般に、サイコロの各々の目が出る確率は六分の一で、振る回数を増やしていけば各目の出る割合はいくらでも六分の一に近づいていくと信じられています。しかしながら、よくよく考えてみますと、そのためには、「一から六までのどの目も完全に同じ割合で出るサイコロがあるとする」という大前提が存在していなければならなくなるのです。いったい誰がどうやってそんなサイコロをつくることができるというのでしょうか……まさか、振ってみてそうであることを確かめてみるというわけにもいきません。それでは循環論に陥ってしまうからです。
 実際これはとてつもないパラドックス(逆理とか逆説とも呼ばれ、一見したところ矛盾、あるいは誤謬であるかのように思われるにもかかわらず、現実にはそれが矛盾、あるいは誤謬であることを立証することの不可能なことがらをいいます)なのですが、パスカル、ラプラス、ガウスといった確率論の元祖たちはもとより、それ以降のどのような天才の頭脳をもってしても本質的にこのパラドックスを解消することはできないできています。確率論の専門書をひもとくと、一般の人々には意味不明の怪奇面妖な数式がところ狭しと並んでいるわけですが、それなどはボロ屋を見かけ上補強したり装飾しなおしたりして、事情を知らない通行人には立派な建物であるように思わせているだけのことだといえないこともありません。
 もちろん、はじめに述べましたように、確率的な予測にはそれなりの有意性はあるわけでして、それがまったく無意味だということではありません。ある範囲とある条件下においては、確率的予測は人間社会の発展にとって有益かつ有効であり、そのこと自体にはそれなりの評価を与えなければならないでしょう。

 ある不規則な形状の地面に水を流したとしてみましょう。その場合、水の流路を正確に予測することは困難です。水の流れる先に木の葉が一枚舞い落ちてきたとか、突然強い風が吹いてきたとか、地面の盛り上がった部分が水を吸って急に崩れたとか、たまたま通りかかった人や車の影響をうけたとかいったような、ちょっとした条件の変化でいきなり流路が変わってしまうことはよくあることですから、完璧な流路の予測は不可能です。
 もちろん、流路が実際に決定したあとで、そうなる確率(見方によってはずいぶんとおかしな話ではありますけれども)を算定することはできるのですが、そうやって導き出された確率値は、その後の流路の厳密な予測にはあまり意味を持たないといえるでしょう。ただ、そうはいっても、ある範囲でなら役に立つわけで、そこがこの問題の厄介なところなのです。
 東京タワーのてっぺんからチリ紙の切れ端を一枚飛ばせておき、それがどこに落ちるかを、あらゆる科学的データ解析をもとに確率論的に予測してみるとしましょう。その場合、一キロメートル単位の誤差を許すとするならば予測が意味を持ちうることはあるでしょう。ところが、一ミリメートル単位の誤差しか許されない精度で予測をするとなると、いくらそのような予測値を算定してみてもそれは無意味にすぎなくなってしまいます。
 そもそも、そのような予測の正しさを確認するには、チリ紙の断片の落下位置を一ミリメートル単位の正確さで測定しなければなりません。そのため、落下位置を正しく確認しようとして測定機器をもった人が落下寸前のチリ紙の断片に近づくと、そうするだけであたりの大気が微妙に揺れ動き、落ちる位置が変化してしまいます。結局、ミリ単位の正確な落下位置の予測など意味のないことになってしまうわけなのですが、これなどはハイゼンベルクの不確定性理論でいう、いわゆる「ゆらぎ」の一例にほかなりません。
 つまるところ、確率予測というものの評価は、評価のために必要な認識尺度や意味の尺度をどのレベルにとるかによって、有意、無意のどちらにも転び得る可能性があるわけなのです。したがって、前提となるそのへんの厳密な議論なしに確率論をやたら振り回してみても得られるところはほとんどないことになってしまいます。もしも、確率論や科学哲学についてより深くより興味深い問題をご存知になりたいとお考えの方があるようでしたら、ぜひとも拙著
『確率の悪魔』(工学図書)をお読みいただければと思います。
 
 話のついでですから、主観的確率と客観的確率に絡む有名なパラドックスをひとつ紹介しておくことにしましょう。時間のある方は、ご自分でどこがおかしいのかを考えてごらんになるとよいでしょう。

 昔暴君の支配していたある国の監獄に十人の政治犯死刑囚がいて、そのうちの九人は翌日処刑されることになっていました。ところが、そのうちの一人の死刑囚が、たまたま見まわりにやってきた刑務所長をつかまえてこう話しかけたというのです。
 「わたしは明日、十分の九の確率で死んでゆく運命にある人間です。所長、お願いですからそんな私の頼みをひとつだけかなえてくださいませんでしょうか?」
 必死に懇願するその死刑囚の様子をどうしても見過ごすことができなくなった刑務所長は、やむなくその男の言葉に耳を傾けてやることにしました。するとその男はその嘆願とやらを語りはじめました。
 「私ども十人のうち一人だけは明日死なないですむわけですよね。そこでお願いなんですが、私自身が明日処刑されるかどうかは教えてくださらなくても結構ですから、そのかわりに、私を除く九人のうちどの八人が処刑されることになるのかをそっと教えてくださいませんでしょうか。けっして他の囚人には口外しませんし、また、自分自身が処刑されるかどうかは明日になってみないと私にはわからないわけですから、所長におかれましてもギリギリのところで秘密義務は守れることになると考えるのですが……」
 いささか迷いはしたものの、結局、男のたっての願いにほだされた刑務所長は、その嘆願を受け入れることにしました。そして、そっと男に問題の八人の名前を告げたのです。すると、その死刑囚は急に明るい表情を浮かべ、心からの感謝を込めて、こう所長にお礼の言葉を述べたというのです。
 「所長、ほんとうにありがとうございました。さきほどまで、明日私が死ぬ確率は十分の九だったのですが、これで、私が明日死ぬ確率は二分の一になりました。お蔭でずいぶんと気分が楽になりました。生きられる望みが大きくなりましたので、今晩はずいぶんと心安らかに眠ることができるかと存じます!」

 このパラドックス、何かがおかしいことは誰にもすぐにわかるのですが、いざそれを明快に説明しようとしてみると、思考が混乱してなにがなんだかわからなくなってしまうことでしょう。そこで、トランプのカードに話をたくしながら、いますこし具体的に考えてみることにしてみましょう。
 かりに刑務所長が、ハート一枚、スペード九枚からなる合計十枚のカードの中からある囚人に一枚だけカードを引かせ、そのカードの裏に印をつけさせたとしましょう。そして、囚人にはそのカードがハート、スペードどちらであるのかを見せないまま、印のついてるカードを意図的に残すようにしながら(この意図的に残すように操作しているところが問題なわけである)、他の九枚のカードのうち八枚のスペードのカードをめくって見せたとしてみましょう。
 すると残りは二枚で、確かに一枚はハート、一枚はスペードであるはずなのですが、この場合、裏に印のついているカードがスペードである確率は二分の一ではなく十分の九であることは言うまでもありません。男が印をつけたカードがハートであれば処刑されないですむとするなら、その男が生き延びる確率は十分の一、また処刑される確率は十分の九であることには変わりありません。
つぎに、もしも、所長が、十枚中、ハート一枚、スペード九枚というカードの構成を囚人には明らかにせずに一枚を選ばせ裏に印をつけさせ、男の選んだカードを含む二枚のカードだけを残したとしてみましょう。囚人が選んだカードがハート、スペードのどちらであったにしても、一枚はハート、一枚はスペードになるようにあらかじめ細工をしておくのはもちろんのことです。そして、どちらが男の選んだカードであるのかを相手に悟られないようにしながら、表をちらりと見せて、確かに一枚がハート、一枚がスペードであることを確認させたあと、再び裏返しにして男の前に並べたとします。それからおもむろに、「お前の選んだカードはこの印のついたほうだ。いまお前自身が確認した通り、一枚はハート、一枚はスペードだ。お前が選んだこのカードがハートなら明日はお前を処刑はしない。そのかわり、スペードならお前は明日処刑されることになる」と宣告したとしてみましょう。
 このケースでは、囚人の男は刑務所長の良心に賭けて、自分の選んだカードがハートである確率もスペードである確率も二分の一だと信じるしかないわけです(主観的確率)。いっぽう、すでに結果を知っている刑務所長のほうは、助かる望みははじめから十分の一しかなかったのだと内心で思っているわけです(客観的確率)。このパラドックスの解明がなんとも厄介に思われる原因は、それなりには筋の通った主観的確率と客観的確率との双方が人間の思考の中で交錯し、そのモツレをうまくほどくことが難しいことにあるのです。
 よりわかりやすいこの種の事例の典型は、イカサマサイコロを用いてゲームをおこなうような場合ではないでしょうか。いまかりに、そのサイコロの重心が大きく片寄っており一の目が特に出やすいことをあらかじめ知っている人間と、まったくそのことを知らない人間とがいるとしてみましょう。目の出かたが片寄っていることを知らない人間のほうはどの目が出る確率も六分の一だと信じてゲームにのぞむしかない(主観的確率にしたがう)わけですが、目の出かたに片寄りがあると知っている人間は、一の目の出る確率が他の目の出る確率に較べて遥かに高いことを知っていて(客観的確率にしたがって)有利に勝負を進めることが可能になります。
 この事例はまだ簡単でわかりやすいからよいのですが、社会的な事象や自然界の諸事象のなかにはこれと同様の状況が何重にも複雑怪奇に累積錯綜しているものがすくなくありません。したがって、客観的だと固く信じている我々自身が(もちろん、その道の専門家をも含めて)、実は前述の囚人と同じような主観的立場に置かれてしまっていることもしばしばなのです。
 ともかくも、ある事象の確率というものは視座のとりかたによって大きく異なってくるもので、実は相当に相対的なしろものなのです。はじめの死刑囚の問題におきましても、暴君の残虐さに呆れ果てた法務大臣が秘密裏に命令を出し、そのうちの五人を翌日には特赦しようと決意していたとしますと、刑務所長が客観的だと信じているその確率には、実は、その時点で客観性がなくなってしまっていることになるのです。 
                                  (ほんだ・しげちか)


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