科学・教育雑想コーナー 連載第1回/2003年6月4日
半円弧は直径より長いことを証明せよ? 

 「いま直径をABとする半円がある。この半円の弧ABとその直径ABの長さを比較した場合、常に、半円弧ABの長さのほうが直径ABの長さよりも大きいことを証明しなさい」という問題があったとしてみましょう。いったい皆さんはこの問題をどのようにお考えになることでしょう。

        

 たぶん、そんなこと当たり前じゃないか、証明以前の問題だろうと思う人がほとんどなのではないでしょうか。それでもなお、「皆さんの気持ちはわかりますが、とにかく証明してみせてください」と迫られたとしたらどうでしょう。「いくら数学嫌いの人間だってそのくらいの証明はできるさ、そんなこと簡単じゃないか!」と大半の人がお考えになるかもしれません。
 円の直径よりも半円周のほうが長いことを具体的に示すには、市販の分度器と直線定規を利用する簡便法が考えられます。まず、直線定規の目盛りの一端に分度器の零度の目盛りのところを当て、直線定規にそって分度器を180度の目盛りのところまで転がしてやれば、分度器外縁の半円周部分のおよその長さが測定できます。次に分度器の零度の目盛りと180度の目盛りとを結ぶ線分(直径)の長さを同じ直線定規で測って両者の測定値を比較しさえすれば、誰の目にも半円周のほうが長いことは明らかでしょう。そんなことは幼稚園児にだってわかるという声が聞こえてもきそうです。
 しかしながら、この実測による確認法は厳密な意味での数学的証明ではありません。数学の証明においては、大小を問わずどのような半円に関しても、一般的に半円周のほうが直径よりも長いということを論理的に示さなければならないからです。もちろん、目盛りつきの直線定規や紐などのような長さを測るための道具を使うことは許されません。
 論理的な証明を求められた場合、たいていの人がまず考えるのは、半円弧ABの中点をPとし、二等辺三角形APBをつくってみることでしょう。そして、「辺APと辺BPの和は二等辺三角形APBの底辺AB(半円の直径にあたっている)よりも大きいことは明らかである。また、辺AP(弦AP)より弧APは長く、同様に辺BP(弦BP)より弧BPは長い。ところが、半円弧ABは弧APと弧BPの和であるから、半円弧ABは辺APと辺BPの和よりも大きい。ゆえに半円弧ABは直径ABよりも長い」といったような証明をひねりだすかもしれません。

        

 実際にこれで証明が完了したと考えてよいのでしょうか。よくできましたと言いたいところなのですが、この証明には重大な欠陥があるのです。「辺AP(弦AP)より弧APは長く、同様に辺BP(弦BP)より弧BPは長い」と簡単に片付けてしまっていますが、どうしてそうなると断定できるのでしょう。確かに、弓形において弧の長さのほうが弦の長さより大きいことは直観的には明らかなのですが、「直観的に明らかだ」では証明になりません。なによりもまず、そんな証明が許されるのであれば、冒頭の問題などは「半円弧ABが直径ABより長いのは直観により明らかである」ということで話は終わってしまいます。
 そこで、前述の証明を確実なものにするためには、「辺AP(弦AP)より弧APは長く、同様に辺BP(弦BP)より弧BPは長い」ことを論理的に証明しなければならないわけですが、実をいうと、この証明問題は最初の問題の焼きなおしにほかなりません。辺AP(弦AP)より弧APが長いことを証明するために弧APの中点をQとし、二等辺三角形AQPを考え、辺AQと辺PQの和が辺APより大きいことを示すところまではうまくいくのですが、そうなると次にまた「辺AQ(弦AQ)より弧AQは長く、辺PQ(弦PQ)より弧PQは長い」ことを証明しなければなりません。いくらやっても「入れ子構造」的に同じ問題が立ち現れ、無限にイタチゴッコが繰り返されていくだけなのです。

        

 3.14159……という円周率を求めるにあたっては、円周とは直径一の円に内接する多角形の辺数が無限に大きくなった場合のその外周の極限値に等しいとみなし、その値を理論的に計算するわけなのですが、この計算も「円弧は弦よりも長い」という暗黙の前提があってはじめて成り立っているわけなのです。
 いったいなぜこんな理不尽なことが起こるのでしょう。このような問題に遭遇し、困惑してしまったときには、はじめに提示された問題そのものの本質を熟考してみることが大切です。意外なことに思われるかもしれませんが、冒頭に示した問題をできるだけ単純化し、骨格だけにしてみると、「曲線は直線よりも長いことを証明しなさい」ということになってしまうのです。
 いったいぜんたい曲線が直線より長いことをどうやって証明したらよいのでしょう。そもそもそんな証明をすることが可能なのでしょうか。残念ながらそんなことは不可能なのです。まだどうにも納得いかないという方々も少なくないことでしょうから、その理由をもうすこしわかりやすく述べてみることにしましょう。
 離曲率ゼロの理想平面上における平面幾何学では、「直線」とはその平面上の二点A、B間をつなぐ線群のうちで最短のものをいうと約束されています。このような約束ごとは「直線の定義」とも呼ばれます。どうやってそれが最短だと決めるのかはともかく、この定義(約束)にしたがえば、直線以外のものはみな曲線であるということになってしまいます。換言すれば、曲線ABとは二点A、Bを通る線群のうち直線AB以外の線群のすべてということになるわけです。そうだとすれば、「曲線は直線よりも長いことを証明しなさい」という問題は「直線でない線は直線よりも長いことを証明しなさい」というふうに言い換えることが可能です。
 ところが、直線の定義なるものはいま述べた通りですから、「曲線は直線よりも長いことを証明しなさい」という問題は、つまるところ、「平面上の二点A、B間をつなぐ線群のうちで最短のものでないものは、平面上の二点A、B間をつなぐ線群のうちで最短のものよりも長いことを証明しなさい」ということになってしまいます。これでは、「長いものは短いものよりも長いことを証明しなさい」と求められているのと同じにことになってしまいますが、もとよりそれは定義の問題ですから、そんなことなど証明のしようもありません。
 ある概念の定義(その意味する内容の根本的な約束)を証明することはもともと不可能なのですが、定義というものがちょっと姿を変え、意地悪なかたちをとって我々の前に立ち現れると、その正体を見抜くことが難しくなり、なんらかの方法で証明できるのではないかという気分になってしまうのです。ある事柄が直観的にみて正しいということと、それを論理的に証明できるということは、実を言うとまったく別問題なのです。もちろん、現実には半円弧が直径より長いことを疑う人は誰もいないでしょうが、そのことを論理的に証明しようということになると、意外なことに誰しもが行き詰まってしまうのです。
 論理の世界における根元的な定義というものは無条件でそれを信じ受け入れるしかありません。そのうえではじめて証明という行為は意味をもってくるのです。逆にいえば、そのあたりに証明という行為の限界があるとも考えられるわけなのです。もちろん、根元的な定義が直観的にみて信じられなかったり、ある状況下で論理の展開に不都合が生じたりする場合には根底にある定義そのものを一新するしかありません。この世のものごとはそれが正しいかぎりどんなことでも証明できるというのは実際には幻想にすぎません。根底的なところにある定義が正当であるか否か、適切であるか否かは、その人の直観的判断に依存せざるをえないわけで、もともとそのような定義の証明は不可能かつ無意味なことなのです。もっと突っ込んだ言い方をすれば、「正しい」という概念の定義自体が問題でもあるのです。
                                   (ほんだ・しげちか)



....................................................................................................................................................................................................................

(C) Honda Shigechika 2003. All rights reserved.