科学・教育雑想コーナー 連載第0回/2003年6月4日
はじめに 

  このたび工学図書から、「確率の悪魔」という風変わりなタイトルの本を刊行することになりました。そのような一風変わったタイトルをつけたのは、すべての科学理論の根底には「確率の概念」が深く関与しており、しかも、この「確率の概念」というものは、悪魔的なまでの鋭さや巧妙さをもって科学理論の展開に寄与するいっぽうで、悪魔そのものの怜悧さや欺瞞のかぎりを尽して科学理論の捏造や科学理論の破綻に隠れた力を発揮したりもしているからでした。ジキルとハイド的な二面性をもつそのような確率の概念の特性を強調するために、「確率の悪魔」という少々奇をてらった表現を用いさせてもらったのです。
 内容的には近年の科学理論や科学哲学の根底によこたわる諸問題について論じたものになっていますが、同書はあくまでもそれらの問題に関心のある一般読者層を対象としたもので、専門書とすることを意図して執筆したものではありません。そのようなわけですから、随所になるべく多くの比喩や具体的な事例を挿入するようにもこころがけました。また、文体や全体的な文章構成に関しても、初学者にも読みやすく理解しやすいようにできるかぎりの配慮をくわえました。したがって、数理科学系の学問分野に関心がある人々向きの入門書としてばかりでなく、哲学や社会学、経済学などのような社会科学系の分野を志す人々の論理思考養成の入門書としても役立つのではないかと考えています。
 一般にものごとの原理あるいは根元というものは単純明快なものだと考えられがちなのですが、実際にはそれほど明瞭なものでも確実なものでもありません。それどころか、原理や根元概念に向かって思考を深めていくほどに、泥沼にも似た対応困難な世界が眼前に立ち現れてくるのです。自然数、ものの長さ、直線、コインを投げたときに表の出る確率といったようなごく初歩的な概念でさえも、普通考えられているほどに明解なものではありません。諸々の理論の正当性のよりどころとでもいうべき「証明」という行為やその思考過程でさえも、その明証性の根拠を深く問い詰めていくとたちまちにして曖昧なものになってしまうのです。
 科学の本質はその客観性にあるといわれていますが、近年における量子論や認識論の研究の進歩とともに、客観性というものが人間の主観に無関係な絶対的存在であるとする考え方には限界があることも明らかになってきました。イギリスの天文学者だったアーサー・スタンレー・エディントンの次のようなことばは、近代科学のおかれているそのような状況をなによりもよく物語っているといえるでしょう。
――我々は見た、科学が最も前進したところで、精神は自然から、自分が自然界にゆだねたものを再び取り返すことができたのを。我々は未知の海岸で、ある特殊な足跡を発見した。その原因を明らかにするため、我々は次々に深遠な理論を考えだした。そしてついに我々は、その足跡が秘め物語る本質を再生することに成功した。ところが、見よ! ……それは我々自身なのである――
 目覚しい科学の発展だけに目を奪われ、ともすると原理思考の重要性が忘れられがちな現代にあっては、科学史の根幹に立ち戻り、その視点からもう一度科学の世界の全体像を展望しなおしてみるのはたいへん意味のあることだと思うのです。浅学のゆえに筆のいたらぬところも多々ありはするのですが、この拙著がせめてそのような思考を進めるための一助にでもなればと、いまは切に願ってやまない次第です。
 なお、この度の「確率の悪魔」の刊行を契機にエッセイの連載をという工学図書の依頼を受け、このホームページ上において、二週間に一度くらいの執筆ペースで数理科学や教育の世界がらみの軽い文章を掲載させていただくことに致しました。お暇なときにでも折々皆様方にご笑覧願えますならば、非才な筆者としましては喜びに堪えない次第です。
                                   (ほんだ・しげちか)



....................................................................................................................................................................................................................

(C) Honda Shigechika 2003. All rights reserved.